聖なる子守唄

7. 彼と彼女の花咲く事情

読みかけの本を膝の上で開いたまま、今しがた起こったできごとをぼんやりと反芻していた。
助けに来てくれたことが嬉しくて、安心して、思わず抱きついてしまったにもかかわらず、リーバルは私を抱きしめ返してくれた。
彼があんな風に優しくしてくれるとは思わなかった。それだけでも十分な驚きだというのに、あろうことか彼は私に……私に……。

「あれってやっぱり、キス……しようとしたんだよね」

脳内に浮かんだ言葉をそのまま声にのせたばっかりに、事実がよりくっきりとあたまに刷り込まれ、全身の毛がぶわっと逆立つ。

いやいや、きっと何かの間違いだ。リーバルが私にキス……だなんて。
第一、唇とくちばし同士でキスなんて、どうやって……。
ついあの先を想像してしまい、羞恥を紛らわすためにあたまを抱えて唸る。

いったん冷静になろう。リーバルファンの女性だって言ってたじゃないか。リト族の彼が人間を好きになるはずがないと。
慣れないことで私があんまりおどおどしてたから、きっとからかわれただけなんだ。

そう自分に言い聞かせるが、現実は自分の思い描く通りではないのだと思い込もうとすればするほどに胸がズキズキと痛む。
さっきは突然のことに驚いて本心とは裏腹な行動を取ってしまったが、本当は彼の言動に少なからず期待していた。
期待していたからこそ、あんな思わせぶりな行動を取っておいて一線を越えてくれなかった彼にもどかしい気持ちが募る。

もしあのとき私が自分から唇を寄せていたら、リーバルは応えてくれたのだろうか……。
ぶんぶんとかぶりを振り、両の頬をバシバシと叩く。

自分は恋に現を抜かすためにここに留まったわけじゃないとリトの女性陣に息巻いたばかりじゃないか。
こんなやましいことを考えている場合じゃないのだ。しっかりしなければ。

そのとき、唐突に小屋の戸が開かれた。
驚きのあまり膝から落としそうになった本を手で押さえて顔を上げる。

アイさん!」

出先から帰って来たらしいサキが、彼女にしてはめずらしく取り乱した様子で小屋のなかへと入ってきた。

「サ……サキさん!おかえりなさ……」

桃色の翼が、私の背中をふわりと包み込む。
彼女の人柄を表すような優しい香りと温かさに、じんわりと目が潤む。
両親の思い出のない私にはわからないけれど、母親の温もりとはこういうものなのかもしれない。

「村の者から聞きました。どこかお怪我はありませんか?」

サキは私の両肩に手を置くと、体を確かめるようにのぞき込んでくる。

「私は平気です。軽く擦りむいただけですから。それより、お相手の女性の方は大丈夫なのでしょうか。
リーバル様は何も言っておられませんでしたけど、重罰をお与えになろうなどとお考えじゃないですよね」

サキは表情を曇らせ、片翼をさすりながら言いにくそうに言葉を紡ぐ。

「今回の件、さすがにお咎めなしとはいかないでしょうね。あなたをお連れになったリーバル様がはじめにおっしゃったではありませんか。痛手を負わせた者には容赦しないと」

「そんな……あれはただの忠告ではなかったのですか」

そこまで言うと、サキは少し困ったように笑みを浮かべた。

「あなたはどこまでもお優しい方ですね。村の皆にあなたのような慈愛に満ちた考えが備わっていれば誰も報復など望まなかったでしょうに」

「サキさん……」

「ご心配には及びませんわ。リーバル様は、あなたならそう言うだろうと。
彼女には厳しく注意し、二度とこのようなことのないようにと誓いを立てさせておられました」

私には一切そんなことを言わず、何の素振りも見せなかった彼が、そこまで考えてくれていたなんて。

「リーバル様が……」

「リーバル様は、あなたのことをいたく気に入っておいでですから。今回の件で一番腹を立てていたのは、実はあのお方なのですよ」

「……ちょっと待ってください、今、何と……?」

「ですから、リーバル様はあなたのことをいたく気に入っておいでで」

「そんなバカな」

愕然として、頬を押さえる私に、サキはクスクスと笑う。

「あんなに意地悪なことしか言わないのに、私を気に入ってる……?」

「あのお方が意地悪をするだなんて。ですが、だとすればそれはアイさんにしか見せない特別な一面かも……」

「ええ……?余計にわかりかねます」

先ほどの彼の言動が過ぎり、どうにか心を落ち着かせようと手にしたままの本を整理しはじめる。
私の様子に何を思ってか、サキはますますおかしそうに笑みを浮かべている。

「リーバル様は、リトの者には等しく接します。男も女も子どもも、皆に優しく、時に厳しく。
かといってどなたかと打ち解けるといったことはいたしません。誰にも踏み込ませず、ご自分から積極的に踏み込んでもゆかない。
けれど、あなたに対してはどこか違う……私にはそう思えてならないのです」

サキの言葉は遠回しなはずなのに、その言葉を受けた私の心はまた期待に高鳴っている。
けれど、それを真に受けて傷つきたくない私は結局はぐらかすことを選んでしまう。

「おっしゃる意味が、よくわかりません……」

本を列に押し込み、うつむく。
サキは穏やかな笑みを浮かべると、私の背中にそっと手を置いた。

アイさんはリーバル様のことをどのようにお考えですか?」

薄桃色に縁どられたターコイズが、澄んだ眼差しを向けてくる。

「私は……」

気恥ずかしさを押し殺して、サキの耳元にこそっと耳打ちする。
耳を傾けていた彼女は私の返答に「まあっ」と嬉しそうに声を上げ、両翼でくちばしを覆った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

サキとチューリを連れてたまには外食でもとタバンタ村に出かけた。その帰り、サキをアイの元へ送った俺は、チューリを村の子どもたちの元へ預け飛行訓練場を訪れた。
アイにより多くの者が治療を施され、数か月前にはほとんど利用する者のなかった訓練場も今や順番待ちが出るほどに賑わっている。
今はちょうど人がはけてきたころのようで、人がいなくなった休憩場に降りてきたリーバル様は、焚火炉の前で弓の整備をしているハーツに声をかけその向かいに腰を下ろした。
いつも取り澄ましているはずのその表情はどこか沈んでいるような、苛立ってるような雰囲気をまとって見え、先の一件が尾を引いていることは一目瞭然だった。
彼らが囲う焚火炉の輪に加わり、腰を下ろすと、ハーツが「よう、テバ」と声をかけてきた。それに「おう」と返し、姿勢を正してリーバル様に向き直る。

「リーバル様、お疲れ様です。今日はサキがアイの側についていなかったばかりに、あなた様にはとんだご迷惑を」

「ああ、テバ。今回の件については君が気にすることじゃないさ。むしろ向こうから尻尾を掴ませてくれたようなもんだと思ってる。
“過激派”がアイに妙な難癖をつけてるのは知っていたし、制裁を下すチャンスをうかがってたんだよね」

「おお、怖い」

整備し終えた弓をかたわらに立てかけながら、容赦なく一刀両断するリーバル様に、ハーツが声を潜めて笑う。
茶化され不服そうにハーツを睨んだリーバル様は、焚火炉に目を落とすと小さく舌打ちした。

「まったく、あんな下劣なことをしでかして僕の顔に泥を塗るようなやつにファンを名乗る資格なんてないよ。そうは思わないか?」

「同感です。翼を持たない者をあのような崖に故意に置き去りにするなど、翼を持つ者として尊厳を損なう行為に値するというもの」

リーバル様はただでさえ立腹だ。機嫌を損ねまいと俺が言葉を選びながら同調していることをわかっているだろうに、恐れ知らずにもハーツは俺でさえ踏み込めないようなことを平気で問い詰める。

「とはいえ、リーバル様。あなたがそこまで怒りをあらわにするなんてめずらしいこともあるもんだ」

リーバル様は今度こそ怒りを隠さずにハーツをはっきりと睨んだ。

「ハーツ。さっきから君の態度は僕を茶化しているようにしか感じられないんだけど……何か言いたいことがあるならはぐらかさずにはっきり言ったらどうなんだい?」

俺ならば少しひるみそうになるほどの圧力にも屈さず、むしろどこか好奇心さえにじませた顔つきで前のめりになっている。

「では……無礼は承知の上で申し上げますが、リーバル様。相手は人間とはいえ女だ。一つ屋根の下、寝食をともにしている男女がまさか何もないとは言いませんよね」

「……は?」

めずらしく顔を引きつらせて動揺しているリーバル様に焦りを感じ、ハーツの肩を掴む。

「おい、ハーツ!もうやめないか。リーバル様を困らせるな」

「こんなこと聞ける機会滅多にないだろ。それで、どうなんですか、リーバル様?」

いつもならここで引き下がるハーツにしてはずいぶん強引だ。さすがの俺もはらはらとやり取りを見守ることしかできない。

「何を言いだすかと思えば……。そもそも異種族ということを抜きにしても僕は彼女を攫ったんだぞ。その事実をなかったことになんてできるわけがないだろ」

「その事実を忘れて都合よく彼女をモノにするなんておこがましくてできないって?いついかなるときも絶対的な自信に満ち溢れる我らがリトの大大将が聞いて呆れますよ」

「ハーツ!」

さすがに言いすぎだ。明らかに業を煮やしはじめているリーバル様に、もうやめろと強く肩を掴むが、ハーツはそれでも引き下がる気配がない。

「失言にまみれたその横っ広いクチバシに矢束を打ちこまれないとわからないようだね?」

「あの子はあなたの行いを赦した。だからこそここに留まることを選んだんだ。
それに、聡いあなたであればお気づきのはずですよね。アイのあなたを見つめる目……あれは」

リーバル様がこぶしを床に叩きつけたことにより、ハーツは口をつぐんだ。
ゆらりと立ち上がり背からおもむろにオオワシの弓を取り外すリーバル様に、ただならぬ空気を感じ冷や汗が伝う。
顔から一切の表情が消えたのに対し、弓を持つ右手はふるふると震えている。彼がここまで激高した姿を見たことがあっただろうか。

「それ以上続けるつもりなら、さっきの発言を実行せざるを得ないな」

「リーバル様、落ち着いてください」

立ち上がって彼の両肩を掴むが、ぞんざいに振り払われる。
リーバル様から沸き立つ怒りは火を見るよりも明らかだというのに、ハーツはなおも煽り立て、彼の内に渦巻く感情を引きずり出そうとする。

アイがあなたを慕っていることくらい、とっくに気づいているんでしょう。だったらいっそのこと種族の壁も互いの関係性ももう取っ払ってしまえばいいんだ。何をためらうことがあるっていうんです」

「……いい加減黙りなよ」

ハーツは不敵な笑みを浮かべると、リーバル様の向かいに詰め寄り、あごを反らせて彼を見下ろした。

「では、俺が彼女を取っても文句はないですね?」

俺が止める間もなく、リーバル様はハーツを殴り飛ばした。
獰猛な獣の如く目が血走り、くちばしの端から吐く息が漏れ出ている。
なおも沸き立つ怒りを鎮めるように深く息を吐きだした彼は、弓を背にかつぎ直すと、荒々しく羽ばたき訓練場をあとにした。

「ハーツ、わざとにしてもあれはやりすぎだ。あそこまで怒らせたんじゃ、俺もさすがにフォローしきれんぞ」

手を貸してやると、ハーツは悪いな、と含み笑いを浮かべながら俺の手を握り返した。
よろめきつつ立ち上がり、くちばしの端から垂れてきた血を腕でぐいっと拭う。

「俺の言葉が冗談なことくらい察していただろうに。……こぶしを振るうほどの怒りが湧くくらい彼女に惚れてるんだな、あの人は」

それには何も答えず、彼が飛び去った曇り空を見上げ、その誇り高き胸に秘められた熱き想いをただ案じた。

(2021.9.12)

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