聖なる子守唄

8. 雨だれは宿る念いと伝い

私を背に乗せて黙々と飛んでいたリーバルが、突然噴き出した。
声を潜めて密かに笑うのは何度か目にしたことがあるが、こうして高らかに笑う姿は新鮮だ。

「君、相当な変わり者だよね。あんな街道から外れた集落もないような場所に行きたいだなんてさ」

背中越しに笑う声の振動が直に伝わってきて、からかわれたせいか彼との密着感によるものかわからない恥ずかしさが込み上げる。

「サーディン公園沿いの街道を通るときに、途中で道が二手に分かれているのがずっと気になってたんです。あの先はどうなってるんだろうって。これまでずっと姫様に付きっきりでしたし、そもそも武器を握ったことさえない私が、あんなところにひとりでなんて行けるはずがありませんでしたから……」

「だから、空を飛べて弓にも長ける僕に連れてってもらおうって魂胆か。
まあ確かに、これまで村のために力を尽くしてくれたわけだし、そのお返しに何か褒美を授けてあげるとは言った。言ったけど……リト族随一と言っても過言じゃない卓越した僕の能力を、まさか好奇心を満たすために利用されるとはねえ」

褒美はいらないと言った私に、それでは村人たちの気が済まないからと無理に聞き出そうと迫った張本人は、人が思い切って口にしたささやかな要望にさえあれこれ文句をつけてくる始末。そういうところは出会ったときから何にも変わらない。

「そ、それは村長が付き添いにリーバル様を指名したからで……!」

はっと我に返り、言いかけた言葉はそのまま飲み込む。
恥ずかしさを紛らすためとはいえ、あろうことか一番厚意を表してくれた村長に罪をなすりつけようとしてしまうとは。さすがに気が引けてしまう。
リーバルは口をつぐんだ私を変な目で振り返ったが、ハッと乾いた笑いをこぼすと進行方向へ視線を戻した。いちいち横柄な人だ。

村長からは何か高価なものを贈りたいと申し出があったが丁重に断った。先の襲撃でリトの村はただでさえ損失が大きい。今は私なんかのために大切な資源を浪費するべきじゃない。
とはいえ何も要求をのまないという選択肢もなく、やむを得ず思い付きでダライト森林に行きたいなどと言ってしまったのだ。
そんなことでいいのかと口々にささめくなか、普段物静かを気取っているリーバルが突然豪快に笑い出したものだから、村人たちはポカンとしていた。
私にとってはなかなか訪れられない場所へ行ける特別な機会だが、翼を持つ彼らからすれば不思議な申し出なのだろう。
とりわけハイラルを横断飛行してもほとんど疲れを見せなかったというリーバルからすると、リトの村から中央ハイラルの端への旅行など、たとえ私一人をおぶってようが所詮は庭を散歩するような感覚なのだろう。
あの小ばかにしたような高笑いは、思い出すだけでもどっと汗が噴き出すほど恥ずかしい。

「ほら……左手を見てごらんよ。山の頂上に薄桃色の木があるだろ?僕が君ならあの名勝を選ぶけどね」

もやもやとした心情を取り残したまま、げんなりとリーバルが示す先を目で追った私は、遠方に薄桃色を見つけると途端に感嘆の声を上げた。

「わあ、すごく綺麗ですね……!いつも下から見上げるばかりだったけれど、上空から見るとあんなにも美しい……」

裂けた岩山の側に、ぽつんと佇む桜の木。彼の言うようにあそこを選んでいたならきっとロマンチックな旅になっていただろう。
そんなことを思い浮かべてしまってから、彼とデートをしに来たわけではないということを思い出しかぶりを振る。

ふと、切れ長の目が肩越しにこちらをうかがっていることに気づく。リーバルは私と視線が合うと即座に顔を背けた。
そのあからさまな様子に、またか、とこっそりため息をつく。
リーバルはここ最近私と視線が絡むとこんな調子で露骨に目を逸らす。話をするぶんには普段と差異ないだけに、この行動が余計に気になって仕方がない。
心当たりがあるとすれば、私が村の女性に嫌がらせを受けていたのを助けられたあの日。飛行訓練場から急いで駆けつけてくれたことが嬉しくて、助けてもらったことに安堵するあまり思わず彼に抱きついてしまったのだ。
あのあと、彼はおそらく私にキスをしようとした。結局途中でやめ、そのまま訓練場へ去ってしまったけれど。
あの日以来、お互いにあの日のことには触れず何事もなかったかのように振る舞ってきたけれど、こうして彼が気まずそうにするたびにあの日のことが思い出され、胸がざわつく。
高まる胸の音を悟られまいと周囲の景色に目を向ける。そうして、もう一度自分にこれはデートじゃない、あくまで褒美だと擦り込む。

「……さあ、お望みの場所はもうすぐだよ」

彼の肩越しに前方を覗き込む。目的地を目で探す私に、あそこだ、とリーバルがあごで示す。
鬱蒼と木々が茂る森を目にし、やっぱりサトリ山を選ぶべきだったかしら、と浮かべてしまったことは胸中に秘めておく。

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リーバルはゆっくりと高度を下げ、木々の間をすり抜けるようにふわりと平地に降り立った。
近くで草を食べていた鹿が私たちが現れたことに驚いて駆けて行くのを見送りながら、彼の背から下ろしてもらう。

さっと乱れた毛羽を整えるのを横目にあたりを見回し、うっとりとため息をこぼした。こうして足を踏み込んで初めて、美しさが身に染みてわかる。
ところどころ表土がむき出しになり反り返った地形。大きな水たまり。無数に広がる草花。静かな森のなかに吹き渡る清々しい風のにおい。
上空から見たときはありふれた森にしか見えなかったが、なかはどこを切り取っても一つひとつがここでしか見ることができない景色であふれていた。

「何だい、その顔。もしかして感動してるのかい?ただの森じゃないか」

「ただの森、されど森、です。自然とともに生きているあなたにはわからないでしょうけど」

「まさかとは思うけどさ……今、僕のこと田舎者扱いしたよね?」

「あら、そう聞こえちゃいました?」

茶化してそう言えば、彼は不本意だと言わんばかりに顔をしかめた。ふん、とむくれたようにそっぽを向くと、クスクス笑う私のとなりをすり抜け、さっさと歩いていく。

「はぐれても知らないよ?」

片翼を掲げながら言い捨て去って行く彼を慌てて追いかけ、未だむすっとしたままの横顔に「ごめんなさい」と声かけながら並んで歩く。

「それにしても、この森、地面がえぐれた地形が向かい合うようにして続いてますね。昔はここに川が流れていたんでしょうか……」

何とはなしに浮かんだ疑問を口にすると、リーバルはさも興味なさそうに、さあ?と小首をかしげつつも、あたりを見回した。

「けど……まあ、もし本当にそうだとしたらちょっとおもしろいな。だとすればだ。ひょっとすると道の外れにある窪地の平原、かつては湖だったりして」

「わ、それすごくいい!ロマンを感じます」

両手を合わせてこくこくと頷く私に、リーバルはちらりと視線を寄越すと、ふんとせせら笑った。

「君ってさ、ときどき僧侶らしからぬ言動をするよね。君の主人のほうがよっぽど聖女らしいんじゃない?」

姫様をよく知る私からすると、あの方は本人の得意分野に関しては時折王女らしからぬ破天荒さを見せることもあるお人だ。
けれど、皆が良く知る彼女は、王族たる立ち振る舞いの美しく可憐な王女だ。彼が言うのもそんな表立った部分であって、きっと深い意味があるわけではないんだろう。
一介のヒーラーである私が彼女と比べられるなど畏れ多いこと。私と二人きりとはいえ、無礼な発言であることを咎めるべきだとわかっている。
それなのに、どうしてだろう。その何気ない一言にずきりと胸が痛み、何も言葉が出てこない。
劣等感とも嫉妬心とも言い知れぬ感情が、心の奥底にとぐろを巻いてわだかまってゆく。

前を歩いていたリーバルは、突然私が立ち止まったことに気づき、踵を返し戻ってきた。

アイ……?」

訝しげに顔を覗き込まれ、咄嗟に顔を伏せたとき、ぽつり、ぽつりと頬に雫があたりはじめた。
見上げた木々の隙間から、流れる雲が見える。先ほどは快晴だったはずの空模様が一気に曇天に塗り替わってゆくのに気づいたとき、雫のように垂れていた雨が一気にどしゃぶりに変わった。

「雨だ!」

リーバルが、雨水から私をかばうように翼を広げる。
しかし、雨傘のように広げられた翼でも防ぎきれず、次第に互いの体が濡れてゆく。

リーバルは軽く舌打ちすると、即座にしゃがみこみ、早く乗れ、と自分の背を示した。
背にしがみつくと、リーバルは間髪入れずに地面を蹴った。
低空飛行を保ちつつ、木々のあいだを縫うように飛んでゆく。器用に幹をかわしてゆく小回りの良さに感心して身を任せていたが、よく見れば葉が彼の腕を掠め小さな傷をつくっている。

「リーバル様、無茶しないでください!」

「黙ってしがみついてろ!舌を噛むぞ」

勾配を登りきったところで、彼は急旋回した。襲い来る浮遊感に固く目を閉じ、振り落とされないようにしっかりとしがみつく。
唐突に視界が薄暗くなったとき、どしゃりと重みのある衝撃を感じ、彼が地面に降り立ったことを悟った。
まぶたを開くと、そこはトンネルのように風穴のあいた場所だった。
高台にこんな場所があったなんて。ここへ来る最中、いざというときのために見つけておいたのだろう。彼の機転にはつくづく驚かされる。

「雨が降る気配なんてなかったってのに……。まったく、こんな豪雨じゃたき火を起こすための枝も拾えやしないじゃないか」

念のため拭くものを用意しとくんだったよ、とため息交じりにこぼしながら腰を下ろした彼は、立てた膝に片翼を引っ掛けながら、未だ止みそうにない雨を恨めしそうに睨んでいる。
肩に垂れ下がった三つ編みから、つう、と雨雫が伝い、腕にいくつも刻まれた傷口の血をにじませる。

村人たちが治療を望むなか、彼だけは、リーバルだけは、一度たりとも私の力を頼ってこない。
単に意地を張っているだけなのか、彼なりの贖罪なのかはわからない。けれど、ほかとは外れたその行動が私にはもどかしく、とても、とても寂しい。

揺れる三つ編みから傷口に視線を落とすと、そっと手をかざした。
口ずさんだ歌が、岩壁に反響し、薄暗いトンネル内が淡い光に包まれる。
こちらを振り返ったリーバルと再び視線がかち合うが、やはり逸らされてしまった。

「……綺麗にふさがりましたよ」

傷のあった個所に置いた手を、不意に大きな手が掴んだ。
わっと声を上げ驚くうちに、大きな両翼に抱き込まれていた。白く力強い指先が肩をぎゅうっと掴み、硬い胸当てに押し付けられる。
きつく締め付けられて息が詰まりそうなほど苦しいはずなのに、濡れ髪に吹きかかる彼の熱い吐息に、早鐘を打つ心臓の音に、思考がすべて攫われてしまって、何も言葉が紡げない。
突然のことにすっかりだらけきっていた腕の力をどうにか振り絞る。
恐るおそる彼の背中に腕を回すと、こめかみに濡れたくちばしをすり寄せられた。

「今更だけどさ……君を無理に連れ去ったこと、謝るよ」

悪かった。重みのある手のひらを後頭部に感じながら囁かれた声色は優しく、不遜な彼らしからぬ素直な言葉だった。
けれど、今欲しいのはそんな言葉なんかじゃない。

ゆっくりと胸を押し返すと、リーバルは眉を歪めて私をじっと見据えた。
薄明りで翳りのある瞳がうろうろと揺らいでいる。また逸らされてしまうと思い、咄嗟に両の頬を捉える。

「リーバル様……」

翡翠の輝きを持つ双眼が大きく見開かれた。
彼の額から垂れた雫が大きなくちばしの先を辿り、私の唇に伝う。

彼の頬を包んでいた両の手は、彼の頬から離した途端に抑え込まれてしまった。
きつく掴まれた手首に微かな痛みを感じる最中、口内にぬるりとした感触が滑り込んできた。
息苦しさと甘い吐息が綯い交ぜとなり、冷えた体が内側から熱くたぎってゆくのを感じる。
切れ長の瞳孔が私の心を射捉えるように細められ、その艶美な眼差しにぞくぞくと背徳感が背筋を這い上る。

互いの息がすっかり上がるころ、どちらからともなく口を離した。
薄く開いたままの唇を彼のくちばしの先でやんわりと挟まれ、思わずくすりと笑みがこぼれる。

「……いいムードに水を差すんじゃないよ」

たしなめるように睨まれるが、その目はどこか穏やかだ。
頬の輪郭を大きな人差し指にするりとなぞられ、触れられたところがじんわりと熱くなる。

ふわりと暖気をまとったまばゆい明かりが、トンネルに差し込む。
リーバルは眩しそうに目を眇め、空を見上げた。

「どうやら雨が上がったみたいだよ」

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風のにおいから後に再び雨が降ることを察知したというリーバルの言葉に従い、早々にヘブラへと引き返すことになった。
小屋に着くなりダライト森林を堪能できなかったことを悔やむ私に、暖炉にさっそく薪をくべてくれたリーバルは、何かを思い立ったようにポーチを探りはじめた。
投げて寄越されたそれを慌てて受け取った私は、両手に収まるポプリの小袋に目を見張り、彼を見つめた。

「埋め合わせにしちゃ十分なくらい、だろ?」

本当は交渉材料にしようかと思ってたんだけど、と両手をかかげた彼は、感極まって涙を浮かべる私に驚いたあと、困ったように笑みを浮かべた。

(2021.9.26)

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