母が亡くなった翌年のこと。父に連れられ、はじまりの台地を訪れた。
この地を踏むのは母の葬儀のとき以来だった。当時のことはもうおぼろげにしか思い出せないが、その日のことだけははっきりと覚えている。
父が大司教と話をしているあいだ、休息をとって良いとの許可をいただき、兵士を従えながら周辺の散策に出かけた。
秋に差し掛かった時候で、小雨の晴れ間に時折吹き渡る風は冷たく。胸にあいた穴にも吹き込んでは、やるせない悲しみを呼び起こした。
ハイラル城にも劣らぬ神殿の精巧な彫刻。木の葉の浮く透き通った池。掃き清められた石畳。
きっと誰の目にも見惚れるほど美しいものとして映るのだろう。しかし、幼い私の目には、そのどれもが冷たく無機質なものに見えた。
「こんにちは」
凛とした声に、虚ろに取り込まれていた意識が輪郭を取り戻し、遠くに聞こえていた水の音が鮮明になる。いつの間にか噴水の側まで下りてきていたらしい。
噴水の前に立ちすくむ少女は、修道服が土にまみれるのも構わずハイラル草をふんだんに抱えている。その額には汗が浮き、薄く色づいた頬にも土の汚れがついている。
はしたない姿にもかかわらず、その素朴で飾らない瞳に惹きつけられ、食い入るように見つめてしまう。
「こん……にちは」
発した声が掠れ、久しく言葉を発していなかったことに気づく。
少女は私の前に跪くと、柔和な笑みを浮かべた。どこか母の面影を感じさせる物優しげな顔つき。
無意識のうちに伝う涙が、頬をしとどに濡らしてゆく。
「悲しみが深ければ深いほど、時による癒しは得難いものです」
少女は懐から丁寧に折りたたまれたハンカチを取り出すと、私の頬を優しく拭った。
「あなたは聡明であらせられるがゆえに、すでに理解しているのでしょう。別れがどんなものであるのかを。ですが……喪う痛みを知るには、あなたは幼すぎる」
ハンカチを握る少女の手が、私の小さな手をそっと包み込む。
「どんな傷をも癒す私でさえ、心の傷を癒すことは難しい。けれど、重荷を少しでも軽くするお手伝いをさせていただけませんか」
「あなたは……?」
「申し遅れました。私はアイ。この度、あなたの側にお仕えすることになりました。ゼルダ様」
アイと名乗った少女はふわりと微笑んだ。
その笑顔に引き込まれ、よろしく、と口にしかけたとき。突如として、突風が吹いた。
ひゅう、と吹きすさぶ木枯らしが、彼女の腕に束ねられたハイラル草を幾本か奪い去る。途端に慌てふためく様がおかしくて、悲しさを忘れ声を上げて笑った。
ああ、と飛んでいったハイラル草を口惜しそうに見送った彼女は、先ほどの洗練された物言いの修道女と打って変わって、最早ただの少女に見える。
彼女の手からハンカチを取ると、頬についたままの土汚れをぐいっと拭った。
「これは、私よりもあなたのほうが必要よ」
拭い方がわからず無造作に頬を擦る私に、恐れ入ります、と少女は笑った。
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アイがリトの村に留まることになり半年。
彼女の無事を知った姫様が喜んだのは束の間、その横顔は日ごとに翳りを深めてゆく。
表敬訪問でリトの村を訪れた際、アイと顔を合わせているあいだ明るい表情は、帰路になるといつも重々しくなる。
時折紅茶をたしなみはするものの、ケーキスタンドの菓子が減るのを久しく見ていない。
湯気の立つティーカップを手にしたまま、口をつけもせずに窓の外をぼんやりと眺めていた姫様は、刹那、眼を歪めると、その憂いを紅茶に浮かべた。
「リンク」
不意に名を呼ばれ、眉を引き締める。
「……何でしょう」
「人助けのためとあらば、あらん限りの力を惜しまずに差し出す。そんなアイを誇りに思います。ですが……どうしてでしょうか」
ソーサーにカップを置くと、新緑を思わすその瞳いっぱいに涙をため、俺を振り返った。
「心が、晴れないのです」
心痛をにじませたその目に、胸にチクチクと棘を刺されるような痛みが走る。
彼女の憂いを晴らすことは、剣を振るうことよりも、盾となることよりも、ずっと難しい。
彼女の側には、アイがいなくては。
「……リトの者達の治癒はとうに終わったと聞いています。俺が行って、連れ戻してきましょう」
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山菜を採った帰り道。村に帰る前に食い損ねた昼食を済ますことにした俺は、ハシビロ湖の近くの丘に舞い降りた。
そこらに咲く花を踏まないように木陰に腰を下ろし、サキがこさえてくれたチキンのサンドにかぶりつく。
正午を過ぎやや傾いた日の光が、ひんやりとした丘の空気を幾分か温め、その微かな温もりは木の葉の影から俺にも降り注ぐ。
サキと結婚してチューリが生まれ、家族の面倒を見ながら、村の警護にもあたる。当然のようにそうして過ごしてきたが、久々に一人の時間を過ごしてみると、これまで日々を少し生き急いでいたようにも感じられる。
たまにはこうしてまったりと過ごすのも悪くない。心地良い静けさに酔いしれながら革水筒の水を流し込んでいたとき。
ごう、とハシビロ湖からつむじ風が舞い上がり、頭上に黒い影が差した。
「チッ……先客か」
危うく吹き飛ばされそうになったコルク栓をしっかりと水筒の口にねじ込み、聞きなれた声の主を見上げる。
リーバル様は紺の翼を一際大きくはためかせると、しなやかな身のこなしで地に降り立った。
「なんだ、テバじゃないか」
俺を見て目を丸くした彼は、うっすらと笑みを浮かべると、失礼するよ、と断りとなりに腰を下ろした。
「ちょうどいい、君と二人きりで話をしたいと思ってたところだよ」
「俺と、ですか?」
リーバル様はそれには答えず、思案するように細められた目をしばしリトの奇岩に向けていたが、ふとこちらに視線を寄越すと、言葉を探すように言い淀みながら切り出した。
「……君がサキと結婚して、もう何年にもなるよね。うまくいってるのかい?」
まさか俺の私生活について踏み込まれるとは思ってもみず、にやけそうになるのを咳ばらいで誤魔化す。
「ええ、まあ……。時折叱られはしますがね」
「ふん、見せつけてくれるじゃないか」
リーバル様は俺が手にするチキンサンドを横目に口角を上げた。
日頃の険しい面差しなど見る影もなく、穏やかな顔つきに微笑みさえ浮かべるリーバル様に、動揺を隠しきれる自信がなく咄嗟に顔を逸らす。
なんだ、なんだ。今日のリーバル様はやけに近しくないか。
この場にハーツがいなくて良かったと今日ばかりは心から思った。あいつがいたなら、この表情の理由を間違いなく問い詰めていただろう。
白い指先で草原をなで、そこに生える薄紫の花を手折ると、花弁を日に透かしながら眺め、彼は微かにため息をこぼした。
「この世は、何でも思い通りになることばかりだと思ってたよ。誰より速く空を飛ぶことも、的を正確に射ることも。人の心に至っては読み説くのは容易いものだとばかりね」
指先が放った茎の先は地面に向かう途中で風に巻き上げられた。
影の霞む翡翠の視線は、その行く先を追わず、さざめく草原に落とされる。
「確かに心を射止めた。そのはずなのに、彼女の瞳は、僕を見通した先に向けられてるように思えてならない」
常により高みを見据えるその鋭い眼差しは、たった一人の少女に向けられることによって、脆いものへと姿を変える。
至高の存在とばかり思わされてきたこのリト族一の戦士が、今はただの青年に見えてならない。
呼びかけられ、はっと我に返る。呆然と見つめていたせいか、儚げな眼差しはいつもの鋭さを取り戻していた。
リーバル様は、伸びをするように両翼を大空に突き出すと、深く息を吐き出し、肩越しに目を細めた。
「ま、今のは僕の独り言だ。忘れてくれて構わないよ」
そう言い残すと、片翼をひらりとかざし、坂をゆったりと下ってゆく。
その寂しげな後姿にいてもたってもいられず、つい呼び止めていた。
「リーバル様」
立ち上がった拍子に食いかけのチキンサンドが転がるが、それには構わず、こちらを探るように向けられた翡翠を真っすぐに見つめ返す。
「大切なものが多いほど、人は色んな方向を向く。だが、真の愛とは一処に留まるものだ。そう、俺は思います」
彼の目が大きく見開かれた。その瞳は、晴れ間が差した水面のようにきらきらと輝いて、刹那、おかしそうに目尻を下げた。
「……何調子いいこと言ってんのさ。テバのくせに」
「なっ……!?」
最後の一言にカチンと来て物申すつもりでこぶしを固めるが、先ほどまでの憂いはどこへやら、彼は高らかに笑いながらすでに天高く舞い上がった後だった。
(2021.9.29)