この暗闇の世界で目覚めてから、どのくらい時間が経っただろう。
目が覚めてしばらくは、ここが暗闇なのか私の視力が奪われたのかわからなかった。
暗闇に目が慣れて周囲の状況がほんの少しわかるようになったころ、ここが自然に囲まれた何かしらの建造物の廃墟であることだけは想像できた。
草木の擦れる音以外の環境音は聞こえてこず、私が目覚めた場所の地面が土よりも固い物質でところどころ削れて材質がむき出しになっているような手触りだからだ。
砂や枯れ葉などがそこらじゅうに散らばっているらしく、少し動くだけでもじゃり……かさ……と音が鳴るところからしても、おそらく人はほとんど踏み入っていないだろう。
陽の光がまったくと言っていいほど差し込まないため、周囲の状況は目を凝らしてようやくざっくりと認識できる程度だ。
遠くで雨の音が聞こえるが、降りこんでくることはないため、天井に閉ざされている場所なのだろうと考えていたが、それもどうやら違うかもしれない。
誰かに呼びかけようと声を発してみても反響しなかったし、天井目掛けて小石を投げてみもしたが、石は地面に戻ってくるまで何かにぶつかるような音さえしなかった。
私の腕力では到底及ばないほど天井が高い可能性もあるが、それなら音は反響するんじゃないだろうかとも思う。
そこまで高い吹き抜けがある場所を体験したことがない私には、あくまで想像することしかできないが。
何にせよ、ここがただの暗闇ではないことだけは確かだ。
得体の知れぬ場所に突然放り出されると行動に移すまでに時間がかかるらしく、私の腹が耐え難い空腹を訴えてきてようやく勇気を振り絞って重い腰を上げた。
けれど、食料を調達しようにも、こんな人も動物の気配さえも感じられないようなところに食べられるようなものがあるんだろうか。
このままずっとここにいた場合、自分の命が長くは続かない可能性を直感的に察し、背筋を嫌な汗が伝う。
どうにかして打開策を見出さなければ。
そのとき、私の足にこつんと固い何かが当たった。
目をじっくり凝らして見る。……どうやら大きな木箱のようだ。
木箱は酷く劣化してところどころ腐り落ちており、あまり力を加えずとも枯れ木のようにパキパキと壊れた。
こんなボロボロの木くず同然の木箱に口にできそうなものなど入っていないだろうと踏んでいた私は、中身を見て酷く驚いた。
木箱のなかには、麻布にくるまれた果物や穀物が蓄えられていた。
麻布やなかのものが腐っていないことから見ても、ここに入れられてからそれほど日が経っていないようだ。
木箱のなかには食料のほかに、手のひらほどの石ーーおそらく火打ち石だろうーーがいくつかと、薪の束、松明などが入っており、数日前ここに人が訪れたことがうかがい知れる。
人様のものに手をつけるのははばかられたが、遠慮と引き換えに死ねるのかと聞かれたら、答えはノーだ。
こんな状況に至ってもなお、まだ自分の命を捨てる覚悟はできていない。
強い罪悪感にさいなまれながら「ごめんなさい」とつぶやき、誰かの備蓄に手を伸ばす。
なかなか着火せず何度もやり直して初めての火起こしをどうにか成功させ、念のため火を通したりんごで胃袋を少しだけ満たした私は、松明の先端を焚き火にかざし、再び立ち上がる。
気が重いが、ひたすらじっとしているわけにもいかないだろう。
ここも必ずしも安全というわけではないはずだ。
暗闇に包まれていたときにはわからなかったが、こうしてよく見てみれば舗装されている場所や草木が生えているところがある。
歩いていった外れの、自然が深くなっているところに唐突に現れる沼のような泥だまりを見つけたときは「松明を手に入れるまでよくぞ歩き回らなかったな」と自分の慎重な性格を称えた。
そして、私の想像は的中していたようで、やはりここは何かの遺構らしい。
カンボジアとか、ペルーとかそのあたりを彷彿とさせる造りで、日本ではないのは確かだ。
あくまでそれらしいというだけで、残念なことにこの場所に心当たりは感じられない。
松明の灯りに映し出された壁の紋様を見ても何も思い浮かばず、私の深いため息だけが静かな闇のなか吐き出される。
不規則に点在する鳥を模したような不気味なオブジェが、大小行く道々に現れては、私におぞましいまでの恐怖心を植え付ける。
そのなかでも見上げるほどの巨像を見つけたときは思わず大きな声で悲鳴を上げそうになったが、同じくして頭上で大きな音がとどろいたと同時に近くで木がガサガサ揺れる音がしたことにより、声も出せないほどの驚きとともに心臓がどくんと飛び跳ねる。
その物音は、焚き火をしていた場所のすぐ近く、木が生えていた沼の縁から聞こえた。
自分の心臓の音が煩わしい。
神経を研ぎ澄ませ、できるだけ物音を立てないようにそろりと近づいていく。
倒れている遺構の柱の影に身を潜め、耳を澄ませる。
暗闇の奥から、荒い息遣いが聞こえ、ぞわりと鳥肌が立つ。
踵を返そうとするが足が震えて思うように立ち上がれず、もたついているうちに砂利に足を取られ、尻もちをついてしまった。
「誰だ!!」
刺すような鋭い声が耳に届き、びくりと肩が上がる。
ん……声?
その声は暗闇の奥から聞こえてきた。
てっきり獣だと思い込んでいた私の心に少しの余裕をもたらす。
けれど、それと同時にこんなところに自分以外の人間がいることに警戒心を抱く。
こんな人気のない場所にいるような人が、果たして正常な精神の持ち主だろうか、と。
「く……しくじったな」
くぐもったうめきとともに切れぎれの呼吸が届き、声の主が手負いの身ではないのかと悟った私は、恐るおそる話しかけた。
「……けがをしているのですか?」
私の問いかけに対し、息を飲む声が聞こえ、ため息交じりの返答があった。
「……なんだ、人か。
オルディンの外れに向けて飛んでたんだけど……ちょっと雷雨に見舞われちゃってさ。
被雷を避けようとしてここに逃れたはいいものの……急に真っ暗になったせいでうまく着地できなかったらしくて……このザマだよ」
「飛んで……?」
ハンググライダーとかウイングスーツとかそういうもので滑空していたということだろうか。
声の主ーーおそらく男性ーーの正体が気になり、隠れていた柱の影から出ると松明をかざしながら近づいていく。
松明の灯りにともされ姿を現したのは、紺色の羽毛に包まれた、人よりも大きな体躯の鳥人だった。
その体はバケツの水をかぶったようにずぶぬれ濡れで、ところどころ傷つき血がにじんでいる。
赤く縁どられた切れ長の目が、まばゆそうに細められ、灯りを遮るように翼をかざす。
「えっ……鳥……!?」
拍子抜けし思わずそう口にすると、鳥人は「チッ」と舌打ちし、苛立ったようにつっかかってきた。
「初対面の相手にいきなりそれは失礼なんじゃないの?
……それより、まさかリト族も知らないのかい、君?」
「リトゾク?」
リト族、ということは、何かの部族だろうか。
であれば彼が身にまとう簡素な造りの衣服は鎧かなにかか。
声の感じや見た目の印象からして、どうやら青年のようだ。
どう見ても人外な見た目に、最初に認識したのが声で良かったと心から安堵した。
幸いなことに言葉も通じている。
こんな暗がりで先に姿を目にしていたら、恐怖が先走って声もかけずに逃げ出していたかもしれない。
「……っ」
黄色いくちばしから苦しそうなうめきが漏れ、彼の傷が想像よりも深手であることに気づかされる。
慌てて駆け寄り、かたわらに片膝をつく。
「だ、大丈夫ですか!……立てますか?」
そっと背中に手を添えたが、その手は呆気なく振りほどかれてしまった。
「このくらい平気だよ……。
それより……どこか休めそうなところはないかな」
「あちらに行けば焚き火があります。
……ついてきてください」
立ち上がり道の先を示すと、彼はよろよろと身を起こし、私のあとについてきた。
リーバルと名乗ったリト族の青年は、私が木箱から取り出して差し出した布をぱっと受け取り、頭にかぶるとわしわしとトサカを拭き始める。
そして、持ち物のなかから取り出した小瓶のコルクをくちばしで器用に引き抜いてペッと吐き出し、なかの赤い液体をぐいっと一気に飲み干した。
羽毛の紺に染みて赤黒くにじんでいた傷がみるみるうちにふさがっていくのをぼうっと凝視していると、呼吸を落ち着かせた彼がようやくこちらに目を配る。
「それで、君……アイって言ったっけ。どうしてこんなところにいるんだい?
君みたいな貧弱そうな子がまさかこんな辺境の遺跡にいるなんて思ってもみなかったから、顔をはっきり見るまでは魔物なんじゃないかと思ったよ」
魔物と言われおどろおどろしいイメージが連想されむっとするが、先ほど私も彼に対し似たような反応を示してしまったのを思い出す。
言いかけた言葉を飲み込み、素直に問いに応じる。
「……わからないんです。気づいたらここにいたので。
ここは海外でもないですよね……。
あなたはどうして言葉が通じるの?」
「カイガイ……?ここは、ドイブラン遺跡だよ。
驚いたね。君、ハイラルの人間じゃないのか」
「ドイブラン遺跡?ハイラル?」
聞いたことがない地名に首を捻る。
彼のような鳥人と遭遇したときから覚悟はしていたが、当然ながらやはりここは日本ではないらしい。
「ま、話は追々にしようか。
雨も上がったようだし、ひとまず助けてもらったお返しに君をここから出してあげるよ」
「えっ、どうやって!?」
「飛ぶに決まってるだろ」
驚く私に彼は背を向けると、すっと身をかがめた。
肩越しにこちらを見返る目が、背中に乗れと言外に示している。
男性におぶさったことなどないうえ、高所が苦手な私にいきなりこれはハードすぎやしないかとこめかみに冷や汗が伝うが、このままここに留まるよりずっといいと言い聞かせる。
見た目には華奢だと思っていた彼の背は、筋肉が引き締まっているのが羽毛越しにもわかるほど意外としっかりしていて、私が乗っても微動だにしない。
彼の濡れそぼった羽毛が私の体と密着し、服を濡らしてゆく。
この胸の高鳴りは、これから空に飛び立つことへの極度の緊張からか、それともまた別のものなのか。
私のなかにふと浮かんだ疑問は、急に訪れた浮遊感により吹き飛ばされてしまった。
命綱もなしに中空へ放り出された私は、ただ高所におののき、彼の首にきつく腕を回してしがみつくことで精いっぱいだった。
終わり
(2021.3.29)