宙にたゆたう

エピローグ

「まさか君が疾風と謳われる僕の飛行についてこようとはねえ。いつの間に練習したんだい?」

澄ました顔でバーチ平原に降り立ったリーバルは、そのかたわらに降り立ちすぐに木に寄りかかった私を見やり、口角を上げた。
含まれた嘲笑にその賛辞が心からのものではないとわかり、喉が焼けるように痛むのをこらえながら、彼をにらむ。

言い返したいが、なかなか呼吸が整わず、思っていることが声にできない。
諦めて木に背を預けながらずるずると腰を落とす。
震える手で腰に携えた水筒を持つと、ぐびぐびと浴びるように水を飲んだ。

そうしてやっと一息ついた私の上に、影が重なる。
至近距離にリーバルのくちばしがあり、目を見開いて見上げた。

「わっ!……ど、どうしたの急に……?」

木に背中をぴったりと寄せて距離を取ろうとするが、逃がすまいと両側を彼の手によってふさがれてしまう。
鼻とくちばしがつきそうなほどの距離にまで詰め寄られ顔を赤くしていると、リーバルは目を細めてつぶやいた。

「……どうして僕がこの場所に連れてきたか、わかるかい?」

彼の真剣な眼差しに、あの日の記憶が思い起こされる。

あの日、私は花の冠を編んでいた。

リーバルはそれをこの大木の上でのんびり寝転がりながら見つめていたけど、私が失敗してしまって、途中で編むのを手伝ってくれたんだっけ。

それで、そのあと……唐突に……。

そこまで思い出して、私の心臓はドクンと跳ね、早鐘を打ち鳴らし始める。

「もう一度、あの日の再現をしてみせようか?」

低くささやいたリーバルの目がより真剣みを帯びたかと思うと、くちばしが私の頬をするりと撫で、耳元に達する。
彼は曲げた肘を木の幹に押し付けたことにより、より距離が縮まり、彼の胸が私の体と密着する。

耳元にかかる彼の吐息に体の奥からぞわぞわと粟立つのを感じている私に、彼はあの日の言葉をもう一度紡ぎだした。

アイ。君が無事転生して、また僕と恋人同士になったあかつきには、今度こそ、夫婦めおとになろう」

愛してる。

彼がささやいたその言葉は、あの日の言葉とは少し違っていた。
けれど、あのときよりも深く、私の胸に届いた。

「私も……ずっと、ずっとリーバルのことが好き。今この瞬間も、あなたを愛してる。
たとえ私が今の私じゃなくなっても、あなたを好きだったこの想いはあり続けるよ」

ゆっくりと言葉を紡ぎだし、彼の羽毛に包まれた頬に唇を埋める。
彼の肩がこわばったが、すぐに力が抜け、お返しに頬にくちばしをすり寄せられ、くすぐったさに身をよじった。

おもむろにリーバルの体が離れ、彼とのあいだにあいた隙間に名残惜しさを感じていると、彼はふっと微笑んで私のとなりにあぐらをかいた。
そのまま木にしなだれかかり腕組みをすると目を閉じた。

「女神の言った通りなら、これからこの世界は過去にさかのぼる。
記憶や想いは、真の意味で完全に失われてしまうだろうね……」

そこまで言うと、彼はきっと前を見据え、すっくと立ちあがった。
そして、腰に手を当てると、前かがみになりながら再び私の眼前にくちばしの先を突きつける。
目を突き刺されるのではと思わずにはいられない距離に先ほどとはちがった心境で心臓が跳ね、木にしがみついた私から彼は顔を少し離すと、今度はその柔らかな羽毛におおわれた人差し指を私の額に押し当て、ぐっと押してきた。
ふわふわしてはいるが、加減なしで押し込まれ、木の幹に押し付けられている私の後頭部が悲鳴を上げている。

「だとしてもだ。
君が今の君じゃなくなったとしても、僕と君の関係が完全に帳消しにされても、僕は絶対にあきらめないよ!
僕はまた君を好きになるだろうし、君にもそうなってもらう。僕らはまた別の因果によって結びつくんだ。
けど……もし君が、この約束をたがえて僕じゃなく……そうだな、リンクなんて好きになろうものなら、バクダン矢をこれでもかってくらいその身に浴びせて毛髪の一本も残らないくらい粉々の消し炭にしてあげるよ」

最後の最後まで、乱暴な物言いだが、ちっとも嫌な気はしない。
彼の言葉に、苦笑いを浮かべながら、はいはい、と応える。

押し付けられた指がようやく退けられ、痛む後頭部をさすっていると、その手を絡めとられ、ふいに顔を上げる。

縦に切り込まれた翡翠の双眼が、真っすぐに私の目を射抜く。
その目を縁取る赤。その赤をなぞる凛々しい眉。それらの鮮やかさに対し深い紺の翼。
彼のすべてに見とれていると、彼がそっとその赤く縁取られた目を伏せた。

唇に、彼の黄色のくちばしの先の黒が、そっと触れる。

彼の周りの景色が、淡くかすみ、陽の光を受けた水面のように、きらきらと光り始める。

もやがかかるように、視界の隅から白くまばゆい光がゆっくりと私たちを包み込んで、溶かしてゆく。

またいつか、この木の下で……。

遠退いていく意識のなか、光の向こうから、最後に彼の言葉が届いた。

いつか、必ず約束を果たそう。

この草原を吹き渡る風の香りも。

彼と見上げた視界を埋め尽くすほどの桜の花も。

彼の背から見渡したこの美しいハイラルの景色も。

すべてを忘れ去ったとしても。

心の片隅にきっと残されている希望をよすがに、ーー必ず。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーー木の葉の擦れる音に、深く沈みこんでいた意識が浮かび上がる。

重いまぶたを持ち上げると、頭上を埋め尽くす木々の隙間から木漏れ日が差し込み、私の網膜をちらちらと刺す。
その細やかな光さえまぶしいと感じるほど、長らく眠っていたらしい。

むくりと起き上がると、私の肩に降りかかっていた木の葉がするりと落ち、自分が草原の上に寝転がっていた事実に気がつく。
草にふわふわと触れているうちに、ぼんやりとしていた意識がくっきりと輪郭を取り戻し、私は勢いよく周囲を見回した。

「は……え?
ちょっ……ここ、どこ!?」

木々の向こうに、白を基調とした祭壇のようなものが見える。
美術館かどこかの庭だろうか……?

困惑しているとはいえ、我ながらとぼけた発想力だと思う。
だが、それほどに心当たりがなさすぎる。

見渡す限り、ビルや住宅街、車など自分の見知った風景はここには見当たらない。
とりあえず人気のあるところに向かうしかない、か……。

よろめきながら立ち上がると、ワンピースについた小枝や葉っぱを手で払う。

カーン……カーン……。

少し離れた場所から、鐘の音が届く。

この音……もしかして、近くに人がいるのかな……。

音の聴こえた方向に足を向けたとき。
木々をかき分けるように、ざあっと一筋の突風が過ぎていった。

初めて訪れた場所のはずなのに、その風の香りは、どこか懐かしい気がする。

こんなわけもわからぬ状況で、先行きの不安がないはずがないのに、私の胸はなぜか、とくん、とくん、と期待に高鳴っている。

目を閉じ、風の音に少しだけ耳を澄ませると、前を見据え、一歩踏み出した。

「宙にたゆたう」(完)

(2021.4.5)

あとがき

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