宙にたゆたう

19. その鷲、再会する(リーバル視点)

ハイラル城のバルコニーから飛び立つと、僕はハイラル平原をヒメガミ川沿いに南下し始めた。

雪や岩山に囲まれ、凹凸した地形の多いヘブラとは違い、ハイラル平原は雪一つなく緑豊かな平坦な土地で、見通しがとてもいい。
おまけに今日は天候も良く、風向きも安定しており、飛行日和だ。

こんな日に、雨なんて降らなくて本当に良かった。

「ねえ、どこに向かってるの?」

肩口からアイに声をかけられ、僕は努めて明るく返答した。

「着いてからのお楽しみだよ!」

アイの表情はなおも曇ったままだ。
僕の首に回した腕が少しこわばっているのが伝わってくる。

僕の背に顔を埋め表情は見えないが、どんな顔をしているのかくらい手に取るようにわかる。

僕はこのひと月、記憶が戻っていることを彼女に言いだすことができなかった。

これまで幾たびもリセットが繰り返されてきたなかで、こうしてお互いに過去の記憶を保持している状態にあるのは、これまでになかったことだと言っていい。

彼女との何気ないやり取りや、交わした約束。
いろんなことが頭のなかを駆け巡って、すべてを思い出したとき、僕は彼女のことを思い切り抱き締めたかった。

けれど、どうしてか、日に日に憂鬱な表情が増えていく彼女を見ていると、手放しに喜ぶことができず、今日に至るまで何も行動を起こすことができなかった。
自分でも何をこんなに臆しているのかと馬鹿らしくなるが、彼女の様子を見ていると、なぜか胸中胸騒ぎがしてやまない。

嫌な気を払うようにふん、と鼻を鳴らす。

「何辛気臭い顔してるのさ。
この僕がせっかくデートに誘ってやったっていうのに」

「えっ!?」

空気を和ますつもりで冗談めかしてそう言うと、彼女ははじけるように顔を上げた。
今まで暗い顔をしていたくせに、すぐ期待に変わる。
落ち込んでいるときでも素直なところは変わらず、こういうとこがまた愛おしいと思う。

「少しはマシな顔になったじゃないか」

「冗談なの?もう、からかわないでよ……」

唖然としていたアイは、落胆したような顔になり口をすぼめてしまった。
僕のなかの鬱蒼としていた気持ちが晴れていく。

「ほら、もうすぐ着くよ。
前を見てごらん」

前方に目的地の目印が見え、あごで示す。
僕の肩口から前を見据えたアイは、僕が示したものを見つけると凝らしていた目を大きく見開いた。

「あれは……」

淡いピンクの花弁が無数に咲き誇る大樹。サトリ山の桜だ。

訪れるのは、確か今回で二度目だったか。
前回は、僕が弓の鍛錬から帰って来たとき、アイが突然ピクニックとやらに行こうと言い出して……その帰りに寄ったんだっけ。

あの日。あの夕映えのなか、僕は、アイに……。

あのときの光景が頭の中に浮かび、冷たい風につかれているはずの頬に熱を帯びていくのを感じ、思考を取っ払う。

桜の木はあの日と変わらず、こずえまで満開に広がり、はらはらと花弁を散らしている。
腰をかがめると、アイは僕の背からするりと降り立った。

乱れた羽毛を整えながら桜の木の下に歩みを進め立ち止まると、アイも僕の隣に並んだ。
二人ともに桜の木を見上げる。

あの日は夕陽に照らされ橙に染まっていた桜は、高く明るい陽光に照らされ、輪郭が輝いて見える。

ひらひらと舞い降りてくる花弁が僕らの頬をくすぐっては過ぎてゆく。

「……リーバルは覚えてないかもしれないけど」

ふいに掛けられた言葉にアイを見つめる。
僕に語り掛けながら宙に手を伸ばすと、花弁をその小さな手のひらに収めた。

花弁をそっと握り口元に寄せるアイの姿は、あの日の光景を再び呼び起こし、僕の鼓動を激しく打ち鳴らす。

「以前もね、あなたがここの桜を見に連れてきてくれたんだよ」

アイもあの日のことをちゃんと覚えてくれているんだな……。
そのことがとても嬉しく思うのと同時に、今すぐにでも抱きしめてしまいたい衝動に駆られるが、気持ちを押し殺す。

この雰囲気に浸りたい想いもあるが、どうしても成さねばならないことがある。

僕は目を細めながらあごに指を添え、もう一度桜の木を見上げる。
そして、あえて彼女の思惑から外れたことを口にした。

「僕が弓の訓練で疲れて帰ってきたあと、半ば強引にルチル湖に連れて行かされたあの日のことだよね?」

「……は?」

「君は湖の苔に足をとられてずぶ濡れになるし、弁当のサーモンはやっぱり冷めてたし、こんな衝撃的なエピソードを今まで忘れてたなんて、我ながら滑稽だね」

我ながら流暢に回る舌で良かったと思う。
アイは僕の思惑通り開けっ放しの口をわなわなと震わせた。

「リーバル……あ、あなた、覚えて……!?」

彼女の驚愕に満ちた表情にしてやったりと笑みを深める。

「ん?ああ、記憶?それならとっくに戻ってるけど」

おどけるように両手をかざすと、アイはきっと眉目を寄せ、怒声を散らした。

「思い出したならその時点で教えてくれたっていいじゃない。
何で今まで黙ってたの?」

「とっくにって言っても、思い出したのはパーティーの日だよ。
あの日はバタついてたし、あれから僕も忙しくしてたし、それに……君はあの日以来どこか浮かない様子だしさ」

「ちょうどいい頃合いを見計らってたら……ねえ」と、肩をすくめると、アイは怒気を失い、表情を曇らせ、目を反らせた。

「ごめんなさい……」

彼女の謝罪を何度聞いただろう。別に謝ってほしいわけじゃない。
いや、謝らせているのは僕のほうか……。

僕は息を短く吐くと、アイの目を真っすぐに見据える。

「ずっと僕に隠してることがあるんだろ。
大方、例の女神の一件がかかわってるんじゃないの?」

核心をついたのは彼女の表情を見ればわかったが、それでも何も言わない。
彼女が隠していることの大きさを何となく察している僕は、こんな状況になってもなお口を割ろうとしない彼女に焦りを感じている。
つい顔をしかめながら、腰に手を当てアイの顔をのぞき込む。

「あのさ、僕結構待ってあげたほうだと思うんだけど?
君が話したいことがあるっていうから気分転換もかねてここまで連れてきてやったのに。
それとも何。僕は気軽に相談できるような相手ではないってことかい?」

優しく声をかけるつもりが、ついきつい言葉を選んでしまったことを後悔する。
アイは僕の言葉にばっと顔を上げた。

「そんなことないよ!
でも……リーバルの前で口にするのは、一番怖い……」

今にも泣き出してしまいそうなアイの目をじっと見据えているうちに、自分の目がだんだんぼやけていくのを感じ、気持ちを鎮めようとゆっくりまばたきをする。

ああ、やっぱりそうか。

アイが隠したがっていることと僕の嫌な予感が一致したのを悟り、思わず苦笑が浮かぶ。
手の震えを抑えるようにぎゅっとこぶしを握ると、やっとの思いで言葉を紡ぎだした。

「もういいよ、何も言わなくて」

僕の言葉に、アイの目にみるみる涙がたまっていく。
その顔を見ていられなくて、僕はうつむきがちに顔を反らすと目を伏せ、腕組みをした。

「本当はさ、薄々気づいてるんだ。
だから……取り返しがつかないことになる前にやっておきたいことがある」

「やっておきたいこと……?」

僕は、ああ、とうなづくと、丘陵の塔の方角を示した。
アイは僕が示す先を見据える。

「ククジャ谷の外れに、岩に埋もれた遺跡があるのを知っているかい?」

「知らない……そこに何かあるの?」

「女神像だよ。僕が知る限り、この世界に現存する像のなかで一番大きく、そして、おそらくは最古のものだと思う。
そこに行って試したいことがあるんだ」

僕はアイから女神の話を聞いてから、密かに仮説を立てていた。
根拠はないが、この世界に現存する像のモチーフは、アイの意識のなかに現れたという女神と同一かもしれないという考えにたどり着いた。

その像のなかで最も古い像こそが神体だとしたら。
もしそこへ向かうことでこちらから意思の疎通をはかれるとすれば。

「もし可能なら……私ももう一度女神様と話がしたい」

僕の提案を受け入れたアイの表情に、俄かにだが光が差したようだ。

「そうと決まれば、さっそく行こう。
絶望するのは、可能性がゼロになってからでいいだろ?」

僕の目を見てうなづく彼女に力強くうなづき返すと、ククジャ谷の遺跡ーー忘れ去られた神殿ーーを見据えた。

(2021.3.28)

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