ハイラル城のバルコニーから飛び立つと、リーバルはハイラル平原をヒメガミ川沿いに南下し始めた。
彼に対する信頼が勝っているからか、不安定ながらも浮遊する能力を手に入れたからか、それとも……命の終わりが近いからか。
もう上空を駆ることへの恐怖心がすっかり消え失せてしまっている。
「ねえ、どこに向かってるの?」
風を切るように颯爽と飛ぶリーバルの肩口にたずねると、リーバルは目線を前に向けたまま声を張った。
「着いてからのお楽しみだよ!」
それっきり黙ってしまった彼に、私はそれ以上かける言葉を思いつかず、彼の首に回した腕の力をきゅっと強めてうつむいた。
大切な思い出はたくさんあったのに、どうしてずっと思い出せなかったんだろう。
もっと早くに記憶を思い出せていたのなら、限りある時間でも彼が知らない二人の思い出をたくさん伝えられたかもしれないのに。
あの光景を見てからずっと嫌なことばかりが頭のなかをぐるぐる巡る。
この命がいつ終えるともわからない不安で胸が張り裂けそうだ。
やり場のない思いを抑え込みたくて彼の肩口に顔を埋めると、私の様子を時折肩越しにうかがっていたリーバルが、ふん、と鼻を鳴らした。
「何辛気臭い顔してるのさ。
この僕がせっかくデートに誘ってやったっていうのに」
「えっ!?」
リーバルの口から”デート”などと言う言葉が出てくるとは思いもよらず、がばっと顔を上げた私は上ずった声が出てしまう。
「少しはマシな顔になったじゃないか」
「冗談なの?
もう、からかわないでよ……」
小ばかにしたように笑う彼に、ぽかんと開けた口をすぼめる。
先ほどまで渦巻いていた嫌な感情が少しだけ和らいだ気がして、心のなかで彼に感謝した。
「ほら、もうすぐ着くよ。
前を見てごらん」
リーバルがあごで示した前方を見据えると、遠くにこんもりした淡い色が見えた。
「あれは……」
それは、いつか二人で見たサトリ山の桜だった。
まさかサトリ山に向かっているとは思わなかった。
記憶にある限り、二人で訪れたのは一度きりだったけれど、こうしてまた二人で訪れることになるなんて。
以前訪れたときは、ククジャ谷を南下したことを思い出す。
あのときは、私が無理やりピクニックに誘ってルチル湖に行ったんだ。
些細なことで喧嘩してしまったっけ……。
その後、彼がサトリ山のてっぺんに連れて行ってくれて。
そして、桜の木の下で……。
リーバルは、あのときと同じく桜の木の側にふわりと降り立った。
彼が身をかがめてくれたので、私はするりと背から降りる。
風で乱れた羽毛を整える彼のとなりに立ち、おもむろに桜の木を見上げる。
前に訪れたとき……あれは、いつだったかな。
この世界の桜は常に満開で、季節さえも思い出せないけれど。
彼が私に想いを伝えてくれた大切な場所であることだけは鮮明に覚えている。
「……リーバルは覚えてないかもしれないけど」
手を伸ばすと、はらりと桜の花弁が手のひらに舞い落ちてきた。
離さないようにそっと手を握り、口元に寄せる。
「以前もね、あなたがここの桜を見に連れてきてくれたんだよ」
あの時の光景を思い浮かべながらそう伝えると、リーバルはあごに指を添え、桜の木を見上げた。
その目がふいに細められたかと思うと、思いがけない言葉が返ってきた。
「僕が弓の訓練で疲れて帰ってきたあと、半ば強引にルチル湖に連れて行かされたあの日のことだよね?」
「……は?」
「君は湖の苔に足をとられてずぶ濡れになるし、弁当のサーモンはやっぱり冷めてたし、こんな衝撃的なエピソードを今まで忘れてたなんて、我ながら滑稽だね」
両手を広げて達弁に語る彼に、私は開けっ放しの口をわなわなと震わせる。
「リーバル……あ、あなた、覚えて……!?」
「ん?ああ、記憶?
それならとっくに戻ってるけど」
それが何だと言わんばかりの彼に驚きがだんだん怒りに変わっていく。
「思い出したならその時点で教えてくれたっていいじゃない。
何で今まで黙ってたの?」
「とっくにって言っても、思い出したのはパーティーの日だよ。
あの日はバタついてたし、あれから僕も忙しくしてたし、それに……君はあの日以来どこか浮かない様子だしさ」
「ちょうどいい頃合いを見計らってたら……ねえ」と、リーバルはきまりが悪そうに肩をすくめる。
「ごめんなさい……」
知らず知らずのうちに気を遣わせてしまっていたのだと知り、目を反らしながらつぶやくように詫びた。
リーバルは息を短く吐くと、私の目を真っすぐに見据えた。
「ずっと僕に隠してることがあるんだろ。
大方、例の女神の一件がかかわってるんじゃないの?」
何も言わずに黙っていると、呆れたように腰に手を当てて顔をのぞき込まれる。
「あのさ、僕、結構待ってあげたほうだと思うんだけど?
君が話したいことがあるっていうから気分転換もかねてここまで連れてきてやったのに。
それとも何。僕は気軽に相談できるような相手ではないってことかい?」
私ははじけるように顔を上げた。
リーバルは口ではそう言いながらも、あやすような物言いだ。
けれど、それは気丈に振る舞っているだけにすぎない。
彼は真意ほど執拗に隠したがるが、心の奥底ではきっと不安にさせてしまっている。
「そんなことないよ!
でも……リーバルの前で口にするのは、一番怖い……」
彼への信頼と強い不安感がぶつかりながらも、必死に弁明した。
彼は勘ぐるように私の目をじっと見据えていたが、ゆっくりと瞬きをすると、何かを悟ったように、ふっと悲し気に微笑んだ。
そして、掠れた声で、低くささやいた。
「もういいよ、何も言わなくて」
その目が少しだけうるんでいることに気づき、胸が締め付けられる。
彼の泣きそうな顔なんて、覚えている限り初めて見た。
彼にここまでつらそうな顔をさせてもなお、私はやっぱり自分の口からは何も言いだせなくて、彼につられて目に涙がたまっていく。
リーバルは沈痛な面持ちのままうつむきがちに顔を反らし、目を伏せながら、腕組みをした。
「本当はさ、薄々気づいてるんだ。
だから……取り返しがつかないことになる前にやっておきたいことがある」
「やっておきたいこと……?」
リーバルは、ああ、とうなづくと、丘陵の塔の方角を示した。
彼の指が示す先を見据える。
「ククジャ谷の外れに、岩に埋もれた遺跡があるのを知っているかい?」
「知らない……そこに何かあるの?」
「女神像だよ。
僕が知る限り、この世界に現存する像のなかで一番大きく、そして、おそらくは最古のものだと思う。
そこに行って試したいことがあるんだ」
リーバルの言わんとすることはわかった。
彼は、私のなかに現れた女神様が、像のモチーフとなる女神と同一だと考えているのだ。
そして、最古の像が神体である可能性に賭け、意思の疎通をはかるつもりだ。
あのときも女神様から私の意識に介入してきたため、こちらからコンタクトを取れるわけがないと無意識に考えていた。
考えてもみなかった。彼の柔軟な発想にはつくづく驚かされるばかりだ。
「もし可能なら……私ももう一度女神様と話がしたい」
希望を見出したいのか、それとも、何かにすがりたいのか。
いや、そうじゃない。
彼から提案されるまで考えもしなかったのに、なぜか、行かなくてはならないような気がする。
「そうと決まれば、さっそく行こう。
絶望するのは、可能性がゼロになってからでいいだろ?」
いつものトーンでそう言うリーバルは、どこか吹っ切れたような、決心したような顔つきだ。
そんな彼から勇気をもらい、私も気を持ち直す。
幸い、私はまだ生きている。
まだこの場所にこうして存在して、彼の姿を見つめていられる。
結果がどうあれ、もうくよくよなんてしない。
残された時間であがくんだ。
最期まで。
(2021.3.27)