雲間から垣間見える景色のように、情景が代わるがわる過ぎては、吹き消した灯火のようにふっと消える。
その情景のなかの風景は、いずれも訪れたことがある場所だった。
けれど、そこには、僕の記憶にある限り一緒にいなかったはずのアイの姿が常にある。
これは僕の想像通りなら、アイの言う失われた過去の記憶というやつだろう。
記憶のなかのアイは、笑ったり、怒ったり、泣いたり、はにかんだり……せわしなく、僕に豊かな感情を向けてくる。
優しく微笑みかけてくるアイの頬に触れようと手を伸ばしたとき、まばゆい光に照らされ、意識が遠のいていった。
瞼に淡い刺激を感じ、うっすらと目を開く。
まどろむ意識を保ちつつ視点を合わせると、目の前で僕の顔をじっと見つめるアイと目が合う。
……は?アイ!?
「うおっ!?」
いるはずのないアイの姿に驚き、体を仰け反らせる。
アイの体に腕を回していた事実にさらに驚くも、いったん冷静になろうと状況を整理する。
そうだ、僕は昨日、アイの部屋で一夜を共にしたのだ。
突然発現した力のことを確認しに来て、そこでアイは記憶を取り戻して、それでーー。
危うく彼女と行為に及びそうになったのだった。
すんでのところで理性を保っていたが、正直危なかった。
昨晩の甘い展開が思い出され、顔に熱が集中する。
それを悟らせまいと顔を手で覆いながら、ひとまず声をかける。
「……起きてたんなら声をかけなよ。寝顔を見られるのには慣れてないんだ」
「ふふ。おはよう、リーバル」
指の隙間からアイの様子をうかがう。
寝起きで少し乱れた髪、はだけて白い肌が覗く胸元、細められた目。
……アイがうぶなことは昨晩わかった以上あおる意図はないだろう。
だが、彼女の姿は、何というか……あまりに、煽情的だ。
気づけば、僕はアイの上に再び馬乗りになっていた。
アイの瞳に映る僕の姿は、まるで小動物を捉えた鷲の目よりも獰猛で、魅惑に取り込まれた男の顔をしている。
「リーバル……」
艶めく唇が、少し震えた声で僕の名を口にする。
ぽってりとして張りのあるそれに吸い込まれくちばしを寄せた。
柔らかでしっとりした感触。
今度は薄く色づいた頬にくちばしを擦りつけると、アイの体がぴくりと震え、頬が緩む。
彼女の感触を楽しむように頬を伝い、そのまま首筋に降下してゆく。
ついばめばすぐに傷ついてしまいそうなほどもろそうな細い首筋に、かぶりつくように舌を這わせた。
「んんっ」
僕の舌の動きに反応し、アイはくぐもったうめき声を出した。
切なげに歪むその目にうっすらと涙が浮かぶのがたまらず、僕はアイの反応を楽しむように執拗に舌をうごめかす。
アイはびくびくと肩を揺らし、僕の肩を掴んで引き離そうと押し返してきたが、その抵抗さえも僕の欲を駆り立てる材料に過ぎず。
両手を合わせても僕の手のひらにすっぽりと収まってしまうほど小さな手など、軽々と抑え込めてしまう。
そのままアイの鎖骨に舌を這わせると、彼女は僕の重みで抑えつけられている足をもじもじと動かし、甘い声を上げた。
自分のあられもない姿や声に恥じらっているのだろう。
背けられた顔をのぞき込むと、頬がすっかり上気し、呼吸があらくなったアイの懇願するような目と視線が絡む。
思い通りの反応にほくそ笑む。
「……このまま抱けば、君はどんな声でさえずってくれるんだろうね」
ささめきつつ、アイの胸部に触れようとしたときだった。
このところ嫌というほど聞かされ続けている足音が、地響きとともに近づいてくるのに気づき、げんなりする。
大方あの大男だろう、と当たりをつけると同時に、部屋の扉が大砲でもぶち当たったかの如く大きな音を立ててガタガタ揺れた。
「……チッ。
ずいぶんいいタイミングで邪魔をしてくれるね」
せっかくの愉しみを邪魔された名残惜しさを感じながら、アイの上から退く。
アイの少し残念そうな顔に胸中笑みを浮かべるも、扉の外で大声で僕の名を叫び続けるやつを仕方なく迎えることにし、ベッドから飛び降りた。
だんだん呼び声が大きくなっていくのに苛立ちながら扉に近づきシリンダーを回すと、強めにノブを捻る。
扉を引き開くと、ダルケルがドア枠に収まりきれぬほどの巨漢をかがめてのぞき込んできた。
「おう、リーバル!おめえさん、ここにいたのか!!
……って、ここ、アイの部屋だよな?」
僕の姿をちらっと確認すると、きょろきょろと室内を見まわし始める。
彼の視線を追い室内に目をやると、気恥ずかしそうにしているアイが布団を肩まで引き上げており、余計ダルケルに対して苛々が募る。
「妙な勘繰りはいいから。
で?朝っぱらから何か用?」
突っぱねるようにそう投げつけるが効果はなく、ダルケルは笑みを一層深めると、耳が割れんばかりの大音量で叫び散らした。
「今日は祝杯だ!
場所はいつもの中庭で11時から始めるんだとよ!!
今日は天気も快晴で縁起がいい!!お前さんらも飲み倒そうぜ!!!」
彼の声で壁がビリビリと揺れる。
振動で天井が落ちてくるのではないかと心配になるほどの声量を間近で浴び、だんだん頭が割れそうに痛み出した僕は、早々に話を切り上げ追い払うことにした。
「はいはい連絡ご苦労様。
お帰りはあちらからどーぞ」
頭を抱えながら片翼をダルケルがやってきた廊下の先に向ける。
彼は満面の笑みを浮かべたまま「おう!また後でな!!」と叫び、再び地響きを鳴らしながら来た道を戻っていった。
地割れが起こるかと思うほどデカい声だった。
あれならまだ寝起きに警鐘を鳴らされるほうが数倍マシだ。
「やれやれ……あのがさつな声は寝起きの頭によく響くねえ」
半分苛立ちを覚えながら冗談めかしつつ扉を閉めると、両手をかかげてかぶりを振り、アイに目をやった。
「すっかり興が覚めてしまったし、僕は一度部屋に戻る。
君も身だしなみくらい整えなよ」
僕ははだけたままのアイの服を指差し、くちばしの端を持ち上げる。
「まったくもう……」とつぶやくアイを残し、自分の部屋に戻った。
閉めた戸にもたれ、一息つくと、目を閉じる。
アイの肌の感触やみだらな声を思い起こし笑みが浮かぶが、不意に、目覚める前の情景が過ぎり、目を見開く。
彼女の話を信じていなかったわけではない。
けれど、僕はようやく確信を得た。
目覚める直前に見た光景が夢ではないということを、僕は知っている。
ーーいや、徐々に思い出されたというべきか。
僕のなかで、あれらの光景が、「知らない記憶」から、「知っている記憶」に、いつの間にか切り替わっている。
そして、アイに対する認識も、「数日前に知り合った人間」から「以前から時を共にしているかけがえのない人」に切り替わってーー
いや、”戻って”いることに気づく。
(2021.3.15)