新涼の風渡る夜に

5. その刻は突然に

ある日。朝目覚めると、彼の姿はもうなかった。元の世界へ帰ることができたのか。それとも存在そのものが消えてしまったのか。私には調べる術もない。
せめて、無事に元の世界に帰ることができていたならと願うだけだ。

結局、私は何もしてあげられなかった。
いたずらに呼び出して、何の責任も取れないままに、ただ普通に生活を送っていただけだ。
それもそうだ。私に何の力があるというのだ。

それからは、また元の単調な生活に戻った。
仕事をして、帰って、ごはんを食べて、ときどきどこかへ出かけて。取り立てて日記に書き留めるほどのことでもない、起伏に欠けるシンプルな日常だ。

リーバルとの生活は、そこにほんの少しの彩りをもたらしてくれた。
思い描いていた通りの性格。すでに見聞きした話。まだ聞いたことのなかった彼やあの世界について。
されども、それはこのワンルームのなかの一コマにすぎない。ほんの少しの彩りで。

けれど。何でだろう。わずかなあいだだったとしても、ほんの少しの彩りが与えられたことが嬉しかった。そのはずだ。それなのに、どうして。

「会いたい……」

心に縫い付けられたたった一つの想いを口にした途端、涙が堰を切ったようにあふれた。

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はっと我に返ると、見慣れた景色が視界いっぱいに広がった。どうやら、無事ハイラルに戻ってきたらしい。
透き通ったままの体を眺め、まあ、そう都合よくいくわけがないよな、と苦笑いが浮かぶ。
幸か不幸か、怨念の渦巻く朽ちたハイラル城が遠くに見える。どうにか討伐には間に合ったようだ。同時にリンクあいつはまだ成し遂げてないのかと浮かぶが、皮肉なことに自分も人のことを言えた義理じゃないことに至り舌打ちをした。

「リーバル、そこにいる?」

メドーの真下から久しく耳にする声に呼びかけられ、ちらりと視線を落とす。
リトの繊毛で仕立てられた服をまとい、赤ら顔で白い息を吐きながらメドーを見上げる青い眼と不覚にも視線が交わり、無意識に顔をしかめ、瞬時にはっとする。
いけない、つい昔のクセでやってしまった。できるだけ温和な物言いを心がけつつ投げ返す。

「……君か。何か用?」

「さっきカースガノンと再戦しにやってきたとき声をかけたんだけど返事がなかったからさ。もしかしたら消滅してしまったのかと思ったよ」

かつての鉄仮面を脱ぎ捨てた無邪気な顔で不躾にものを言う。以前ほどの取っつきにくさはないが、きょとんとした無表情はそれはそれでかんに障る。

「この僕が使命をまっとうせずに消滅、だって?馬鹿言うんじゃないよ。一度はやられちゃったけど、今回ばかりはそうはいかない。ガノンに借りを返してもいないってのにみすみす消滅するなんて僕のプライドが許さないね」

「相変わらず尖ってるなあ」

困ったように笑うかつての好敵手ライバルに、ふん、と鼻を鳴らし、照準の向かう先を見据える。

「ま、ちょっと席を外させてもらってはいたけどね……」

あちらでは随分長い時を過ごしていた割に、こちらの時間はさほど経過していないようだった。
あの小さな部屋で過ごした数か月ものできごとは、すべて夢だったのだろうか。だとすれば、僕の想像力は大したものだ。これほどまでに鮮明に情景が浮かぶ夢は生前にも見たことがない。

最後の景色は、いつもの朝の光景だった。
寝ぼけ眼を擦りながら、手探りで目ざましを止めようと唸るアイの姿。
何だかだ見慣れたその姿に、思わず笑みをこぼしたタイミングだった。

たった一間の狭い部屋。手を付けられないお供え物しょくじ。滝のように水を出す”シャワー”の音。小さなベッドに眠るアイあの子
英傑であるこの僕に物怖じせず、お茶目で、ときどき寂しげで。僕を見つめるまなざしは、日に日に穏やかに、やがて甘美に。

たった一度、彼女からシュガーポットを受け取ろうとしたとき、手に彼女の指が触れたような感覚があった。
ほんの一瞬だが、ほんのりと温かく、滑らかで。

あの感触を確かめたくて、彼女が眠っている隙に何度も頬に触れようと試したが、ついぞ触れることは叶わなかった。
マグカップにはたった数日で触れられるようになり、わずかなあいだでも持ち上げられるようにまでなれたというのに、ただの一度も。

割れたシュガーポットで彼女が指を切ったとき、腕を掴むことができていたなら。
彼女が熱で倒れた日、咄嗟に差し出した腕で抱き留められていたなら。

互いに別々の世界で暮らしていた僕らがこうして出会うこと自体、本来ありえないことだ。その”ありえない”はずのことが現実に起こったというのに。
ただ存在を認識し合うだけの関係に、一体何の意味があるというんだ。
目の前にいながら触れられないことが、あんなにもどかしいなんて。
そればかりか、最後に別れの言葉を交わすことさえ叶わなかった。

こんなやり場のない気持ちが手土産とは。
何による仕業か知らないが、いくら僕が皮肉屋をこじらせているとはいえ、この仕打ちはあんまりじゃないか。

「会いたい……」

(2021.12.30)

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