新涼の風渡る夜に

3. 冷たい指先

リーバルがこちらの世界に現れてからひと月が経った。
ネットや本で見つけたおまじないを片っ端から試す毎日は相変わらず続いているが、収穫は未だに得られない。
私のせいで彼には多大な迷惑をかけてしまっている。もしこのまま元の世界に帰れなかったら、彼は務めを果たせないことを悔やみ、私を責めるだろうか。

陰鬱な気持ちのまま帰宅した私は、手にしたマグカップをじっと見つめるリーバルに荷物を取り落とした。

「わっ!……何だ、君か。帰って来たんなら”ただいま”くらい言いなよ」

リーバルは慌てて持ち直したカップをそっと食卓に置きながら眉を潜めた。

「今、マグカップ持ってましたよね。触れるようになったんですか?」

「ああ。生前物に触れていたときの感覚をイメージしながら手を伸ばしてみたら触れた。コツさえ掴めば簡単なもんさ」

さらっと言ってのけるが、作中でもストイックな彼のことだ。きっと私の見ていないところで猛特訓したに違いない。
透けていることを除けば普通にやり取りができるからか、それとも幽霊であることよりも”物語のなかの人物”という認識のほうが強いからだろうか。
一般に聞くような霊障も一切なくあまりに無害すぎるせいで彼が幽霊であることを忘れかけていたが、これって一応ポルターガイストというやつでは……。

「聞いてる?」

突然間近で顔を覗き込まれ、驚いて仰け反る。

「な、何ですか急に……!」

「だから、何か飲み物を入れてくれって頼んでるんだけど。
ま、実際に飲むことはできないかもしれないけどさ。ちょっと試してみたいことがあってね」

好奇心に満ちた眼差しで人差し指を立てる彼に、何だかんだで楽しんでるなあと苦笑が浮かぶ。

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熱々のコーヒーを前に置くと、彼は「よし」と意気込み、マグカップに手を伸ばした。
先ほど一度目にしたばかりなのに、ドキドキしながら状況に見入ってしまう。
リーバルは迷いなく取っ手を指でつまみ上げると、口元にカップを運んでゆく。
彼がふう、と吐き出した吐息が、湯気を揺らす。
啜る音がしたあと、ごくりと彼の喉が上下するのを目の当たりにした私は、待ちきれず身を乗り出した。

「……飲めました?」

静かに置かれたカップの中身は少しも減っていない。けれど、彼はこくりと頷いた。

「実体の中身は減らないようだけど、確かに飲めた感覚はあった。熱さも味もしっかり感じた。だから言わせてもらう。……何か異様に苦くない?」

「ああ、すみません。あなたがあんまり急かすから、インスタントにしちゃいました」

「ミルクと砂糖」

ふてくされて催促する様が何だかおかしくて。
笑い混じりにシュガーポットを手に取ったときだった。
受け取ろうと伸ばされた大きな手が私の指先にあたった気がした。ひんやりとした柔らかな感覚に驚き、思わず手を離してしまう。
派手な音を立てて割れたポットから角砂糖が散らばる。

「お、おいおい、大丈夫かい?」

「ごめんなさい。ちょっとびっくりしちゃって」

大きな破片だけでも先に拾おうと一つを手にしたとき、焦ってしまったせいか指を切ってしまった。
指先からとろりと血が垂れる。口に含んで止めようとしているところに、彼がそばにかがんだ。

太く白い指が私の手首を掴もうとして、すり抜けた。
長らく冷気にさらされていたような冷たさ。それなのに、触れあった個所は熱を帯びているように熱く。

「やっぱり気のせい、か……?」

しみじみと己の手のひらを見つめる彼の瞳を探っても、何を思ってそうつぶやいたのかはわからない。
半透明の指先が私の指先を指し示す。

「深く切れてる。水で洗ったほうがいい」

彼の言葉にぼんやりと頷き、よろよろと立ち上がる。
血が止まったらホウキとチリトリも持ってこなきゃ、という彼の言葉は、傷口を濡らす水の音と激しく打つ鼓動にかき消され、遠く聞こえた。

(2021.12.30)

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