ハイラル城に奉公し始めてふた月が経った。
いつも通りの時間に出勤し、すっかり着慣れたメイド服に袖を通す。
棚は四隅から紋様の溝に至るまでしっかりと拭き上げ、ベッドのシーツを手早く新しいものに取り換える。
手落ちのないよう隅々まで完璧に、着実に、綺麗に磨き上げていく。いつもの通りの段取りだ。
例外があるとすれば、いつも私の勤務中は不在にしがちな人物が今日に限って自室にこもっていることだ。
時折視線を感じちらりと見やれば、さっと視線を外される。気づいていないとでも思っているのだろうか。
この数か月ですっかり板についているからか、やるべきことはしっかりとこなせてはいるが、視線が気になって仕方がない。
そうだ、視界に入れないようにすればいいんだ。
ふと思い立って、いつも最後に行っている窓ふきを先に回す。
しかし、窓に微かに映り込む姿に、迂闊だったとすぐに思い知る。
窓越しでもわかる。時折手にした本から顔を上げ、こちらに送られる翡翠色の視線。
彼の様子が私に見えているということは、私が密かに様子を伺っていることもきっと感づかれている。
見られていると思うと、背中がだんだんむずがゆくなってくる。
誤魔化すように雑巾を窓に擦りつけ、ガラスのなかの主をぼやけさせる。
壁に立てかけておいた脚立を広げ、段を踏みしめて登る。
さすがは王城。町にも吐き出し窓つきの家はいくらでも建っているが、城内は各部屋の天井が高く、窓もそのぶん大きい。
窓の天辺近くまで登れば、下を見るのが少し怖くなるくらいには高さがある。
脚立の縁をしっかりと掴み、もう一方の手に神経を集中させる。
落ちないように慎重に、しかし丁寧に。
「なかなか手馴れてるじゃないか」
集中しきっているところに背後から声がかかり、びくりと肩が跳ね上がる。
その拍子に段にかけた足を滑らせ、思わず脚立を掴む手を離してしまった。
あっと声を上げたときには、重力に引っ張られた体が後方に傾いていた。
「危ない!」
痛みを覚悟していた身体は、ふわりとした弾力に受け止められた。
安堵したように吐き出される吐息。銀色の胸当て越しにも聞こえる、どくどくと脈打つ心音。
羽毛から微かに香る獣のようなにおいに、身の危険から開放され胸をなでおろすどころか、私の鼓動は収まることを知らず強く鼓動を打ち続ける。
「まったく……いきなり話しかけたのは悪かったとは思うけど、もし僕がいなかったら、かすり傷じゃ済まなかったかもよ?」
口では咎めながらも、飄々とした笑みを携えながらそっと床に降ろす動作が優しくて、余計に気持ちが高ぶる。
確かに、咄嗟に抱き留めてくれたおかげでけがをせずに済んだといえば一理ある。
けれど、このハプニングは私の集中力を欠く存在が原因だ。
そんなこと、口が裂けても絶対に言えないけれど。
「申し訳ありません。またお手を煩わせてしまって……」
リーバルは私の言葉になぜか眉根を寄せた。
今の何に気分を害したのかわからず困惑していると、あざけるようにふん、と鼻を鳴らした。
こういう笑い方をするときは、決まって無茶なオーダーが来ることくらい学習済みだ。
片手を腰に添えながらくちばしの先を指でいじっていたリーバルは、何か思いついたように目尻を下げると、すっと人差し指を立てた。
「じゃあ、こうしようか」
立てた人差し指が私の眼前に迫る。ハイリア人の指でも指を差されれば多少驚くが、リトほどの大きな指だと迫力が違う。
思わずちょっと仰け反ると、リーバルは驚く私をおもしろがるようにますます笑みを深めた。
「今後、僕が君を助けるたびに、君は僕の要求を一つ叶える。どうだい?悪くない提案だろ」
「よ、要求って……?どういったものでしょうか」
「安心しなよ。君にできないことは頼まない。けど、例を挙げるとするなら……」
伸ばされたままの指先が、おもむろに私の肩にかけられる。
一歩、リーバル様が前に出たことで距離が近づき、大きなくちばしがすぐ上まで迫る。
肩に置かれた手が私の身体をなぞるように這い、首筋に登る。
服の襟を辿ってきた指先が首の皮膚に触れた途端、羽毛の感触が直に伝わってきて、びくりと体が硬直する。
「あ……リーバルさま……っ」
紺の羽毛越しに喉が上下した。興奮したように短く吐き出される息に釣られ、私も呼吸が早くなる。
頬をそっとなでる手つきに漏れ出そうになる声を抑えながら、制止するように大きな手首を掴むが、今朝整えたばかりの後ろ髪をくしゃりと乱され、抵抗は無駄だと悟る。
訴えかけるように見上げたが、愉悦に歪んだ男の顔つきに何も言葉が出てこなくなる。
そんな目でこれ以上私を見つめないでほしい。好きすぎて、期待で心がどうにかなってしまいそうだ。
動けないままの私に気を良くしたようにクスクスと笑みをこぼし、反対の頬に吐息が吹きかけられる。
低い息遣いが耳に響いて首元がぞわぞわと粟立ち、脳をかき混ぜられるような感覚に腰が砕けそうになる。
すり……となぞるように頬に擦りつけられたくちばしの感触。
硬いのに、少しだけ暖かい。
それがキスだとわかったのは、ちらりと見たリーバル様と目が合ったときに気恥ずかしそうに逸らされてしまったからだ。
普段澄まし込んでいる彼からは想像できなかった。自分から仕掛けておきながらうぶな反応を示す様に、リーバルの本質を垣間見たような気がした。
「さっきのは、これでチャラにしてあげる」
余裕ぶってそう茶化しながらも動揺を隠しきれておらず、さっと私から身を引くと元の位置に座って読書を再開し始めてしまった。
あからさまな態度がおかしくて思わず吹き出すと、本に落とされていた視線が鋭く切れ味を持って上げられる。
「ほら、休憩は終わりだ。さっさと掃除を再開しないと、減給するようメイド長に進言するよ?」
「そ、それは困ります!」
慌てて脚立を登り直そうとして、また体がぐらつきそうになる。
今度は何とか体勢を保ち額に浮いた汗を拭う。
背後から嫌な視線を感じ、はっとリーバルを見やると、本を膝に放り腕組みをしながらこちらを睨んでいた。
「もしかして、さっきのじゃ足りなかったとか?」
「ちょっと手元が狂っただけです……!」
食い気味に切り返す私に少し残念そうにふーんとつぶやくなり、ふたたび本を手に取り読み始めた。
いつもなら小一時間で済む部屋の清掃に、すでに倍の時間がかかっている。この調子だと、今日は残業になりそうだ。
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掃除を再開し始めたアイに、ほっと一息をつく。
さっきのは少々からかいすぎたかもしれない。
けど、おかげで確信した。彼女は間違いなく僕に好意を抱いている。
こういった感情を向けられることには慣れているはずだが、この子を前にするとどうも調子が狂う。
さっきはあんなにとろけた目で僕を見ていたはずの彼女の顔つきはすっかり仕事人のそれだ。
てきぱきと窓を拭き清めていく様に、こんなに落ち着かないのは自分だけなんじゃないかと苛立ちが沸き立つ。
ふう、と届いた小さなため息に、はっとする。
窓を拭き終えたアイが、そろりと脚立を下りるところだった。さっきあんなことがあっただけに、無事に降りられるかヒヤリとしつつ見届ける。
良かった、今度はちゃんと下りられた。密かに胸をなでおろす。
脚立を元あった壁際に丁寧に立てかけたアイは、次の作業に取りかかろうとしたところで、ためらいがちにこちらに近づいてきた。
僕のかたわらに立つ彼女の頬がまだ赤いことに気づいて、いつも通りに見えて案外平静ではないとわかり少し嬉しくなる。
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「……何かな?」
淡々と答える僕に、アイのメイド服のエプロンを握りしめる手が固くなる。
「さっきのは……いったい何だったんでしょうか」
「さっきのって?」
「ですから、その……!」
真っ赤に染め上げ、必死に言葉を紡ごうとするのがいじらしい。
言わんとすることはとうに理解できている。わかっていても、彼女の口から引き出したい。
「どうして私の頬に、口づけをしたのですか」
「事前に伝えたはずだけど。君を助けた交換条件だって」
「本当にそれだけでしょうか」
なおも食い下がる彼女にどう答えようか決めあぐねつつ、音を立てて閉じた本をソファのかたわらに放り、立ち上がる。
「じゃあこっちも聞かせてもらうけど。理由が知りたいのは、どうしてかな?」
「そ、それは……」
「僕の質問に答えられないのなら、こちらも理由があったとしても教えてあげるわけにはいかないな」
ちょっと意地悪だっただろうか。逸らされたその目にうっすらと涙が滲んでいる。
何か言葉をかけてあげようか悩むが、言葉を選んでいるうちにアイの方が意を決したように僕を見上げた。
「理由が知りたいのは……リーバル様を、お慕いしているからです」
胸中を打ち明ける重みが、雫となって彼女の頬を伝う。
薄々気づいていたはずなのに。直接言葉にされると、頭の隅で冷静にやはりと思いつつも感情が驚きと高揚感で満ちあふれてくる。
胸が締め上げられたように苦しくて、呼吸の仕方を忘れそうになる。
「突然こんなことを言って困らせてしまいましたよね。申し訳ありません、ちょっと顔を洗ってきます」
止めどなくあふれる涙を手の甲で拭っていた彼女は、取り繕ったような笑みを浮かべると、僕の脇を抜けて行こうとする。
「待ちなよ」
思わず、引き留めていた。
僕の呼びかけに彼女はドアノブに手をかけたまま立ち止まった。
こちらに背中を向けたままだが、漏れる嗚咽にまだ泣いていることがわかる。
ほんの駆け引きのつもりだったとはいえ、僕への想いを募らせて泣くほど慕ってくれている相手にやるには軽率すぎた。
これまで僕に好意を向けてきた子たちのように、ちょっと気があるくらいだとばかり考えていた。
まさか、ここまで純粋に想ってくれているなんて。
額を押さえて息を吐き出すと、アイの側に近寄る。
勝手に出て行ってしまわないように扉を手で押さえつけ、震える彼女の身体を片翼で包む。
「君の想いは十分伝わったよ。無理に聞き出すような真似してごめん」
「リーバル様……」
嗚咽交じりに僕を呼ぶ頼りない声が愛おしくて、胸が締め付けられる。
「僕も君が好きだ」
恥など捨て置き、微かに色づく耳元に小さくささめく。
驚きながら弾けるように振り返ったアイの顔は、涙でくしゃくしゃに歪んでいた。
酷い顔だね、と笑う僕に気恥ずかしそうに眉を寄せると、腕で顔を隠そうとする。
僕らとは違い細くてか弱そうな手を掴んでずらすと、濡れそぼった唇に口付けを落とした。
(2024.4.22)