私のつたない字で書いた50音表を、リーバルは弓の訓練のときのそれと同様の真剣な眼差しで書き取っていく。
すでにひらがなは書き終え、今はカタカナのサ行だ。
ハイラルの文字はごくシンプルで、はらいやはね、短い曲線で構成されたつくりをしている。
そのため画数や曲線が多い私の故郷のひらがなは書きづらさがあるようだ。
どうせ基本的な文字だと自信満々に臨んだ矢先、書き出しの”あ”から思うように書けなかったのがよほど気に入らなかったらしく、初っ端からリーバルの眉間には深いしわが刻まれた。
ぐしゃぐしゃに丸められた紙はあっという間にテーブル上を埋め尽くしてこぼれ落ち、床にまで散らばっている。
それでも自ら教わると言い出したことを違えるのは彼の意地が許さないようで、根気強く何度も書き直し、そのうちにすらすらと書き取れるようになっていった。
一度コツを掴みさえすれば元々のポテンシャルの高さが発揮されるようだ。飲み込みはとても早いと思う。
彼の筆跡はその鋭利な気質を表すようにシュッとして右肩上がりだ。
迷いのない字形からは気品と根底にある真面目さがどことなくうかがえる。
無理を無理だと思わず、何事にも食らいつくように励む。
リトの戦士たちはリーバルがその両翼に抱く栄光だけでなく、彼を形成するこのアグレッシブで粘り強い姿にも憧れを抱いていることだろう。
こんな日常の一部にさえリトの憧れの的の一端を見ることができるのは、私だけの特権だと思うと、頬が自然と緩んでいく。
「ああっ!クソッ」
リーバルが突然ついた悪態に、頬杖をついてぼんやりしていた意識を彼の手元に集中させる。
ナ行のネを書き取っていたリーバルは、小指の側面についてしまったインクを丸めた紙でガシガシと拭き取ろうとしている。
綺麗な紺の羽毛は無造作に毛羽立ち、インクの黒が滲んで煤けた色になってしまっている。
脳裏に雨上がりに訪れた馬宿の泥にまみれたハイラル犬が浮かんだが、かぶりを振って思考を払う。
「君の故郷の文字、やたら多すぎないかい?
基本の文字だけで2種類もあるだけでなく、合わせて100字近くもあるなんてどうかしてるよ、まったく」
その左翼にはまだインクがかすんでいるが紙じゃ到底拭いきれないと諦めたらしく、小さく丸めると後ろに放った。
彼の足元には一応くずかごを用意しているのだが、そこに捨てる気は一切ないらしい。
「布が水を吸うように吸収できるのは子どものうちだけですよ。私だって幼少のころに習ったからこそ宙で書けるってだけなんですから」
「君からしたら当然なんだろうけど……この2種類以外にもまだあるんだろ?確か”カンジ”、って言ったっけ?」
ハ行を難なく書き終えマ行を書き取りながら、リーバルはぼんやりと言う。
「はい。でも、漢字は種類が多すぎて私も網羅できてません。
同じ発音なのにニュアンスによって違う字を当てはめたり、ひらがなと合わせて使ったりするものなので。教えられる自信がないです」
「言葉なんて伝達するための手段にすぎないのに、そんなややこしいつくりをしてるなんて理解に苦しむね」
「確かにそうですよね……。でも、言葉一つひとつに合った文字があるということは、より多く文字を知っていたら、そのぶんだけどんなニュアンスかすぐに知れるっていう利点もあると思いませんか?」
「語彙が多けりゃ得だろうさ。けど、それを覚える時間がもったいないじゃないか。
無駄に難しい言い回しを物色するより、単純な言葉でより的確に伝えることの方が重要だと思うけど」
普段やたらと回りくどい言い方で嫌味を吐く人の言葉とは思えず唖然とする。
そうこうしているうちに、リーバルは”ン”まで書き終えたらしく、インクボトルに羽ペンを浸して頭の後ろで手を組んだ。
「はい、終わり。どうだい?うまく書けてるだろ」
ひらがなもカタカナも、見よう見まねで書いたにしては上出来だ。
字形のおかしなところもないし、違和感も感じない。
「立派な字だと思います。初めてなのにここまで書けるなんて、やっぱりリーバルはすごいです」
「ふん。この程度、僕の手にかかれば余裕だよ」
ひらがなの”あ”で苦戦していたことなどなかったかのようにしれっと言ってのける。
まあ、彼はこうだよな、と労いを込めて肩を揉むと、”疲れてないんだけど”と言いながらもされるがままに目を細めた。
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プルアは私の持参した日記をパラパラめくっては驚嘆の声を上げ、50音表を見ては興味深げにながめ、あごに指を添えてはふむふむとうなづいている。
「へえ、この”ヒラガナ”と”カタカナ”には一文字一文字に音があるのね。縦書きの文字なんて初めて見たわ……」
「はい。この一行目の”あいうえお”は母音のみですが、それ以外は文字自体が母音と子音の組み合わせなんです」
「それで、元の世界の文字の読み書きは記憶しているけれど、この世界の文字の読み書きはほとんどできない……と。
まあ、アイの記憶が正しい前提でいくとそりゃそうよね。安易にこんなこと言いたくはないけど、元々違う世界にいたってんなら、習ってもいない文字を初めから書けたなら、もはや神の恩恵かよほどの天才だわ」
「けど、文字の読み書きができないのに言葉が通じるってのは変なんじゃないの?」
窓辺で外をながめるふりをしながら、ガラス越しに彼女らのやり取りを見ていた僕の問いに、プルアは、確かに、と顔を上げた。
「妙よねぇ。ただ、それはアイがいつからこの世界に存在しているか、にもよるかも。
もし赤子としてこの世界に生まれ、ハイリア語を聞きながら育てられていた時期があるのならごく自然なことだし。
けど、問題はアイの記憶が途切れている期間こそがこの世界に召喚された時期とかぶった場合。そうだとすれば、それこそさっき私が言った言葉が当てはまるわね」
神の恩恵か、天才……か。何だかシャクに感じる言葉だな。
アイの能力は、少なからず彼女が日々努力し、苦悩により得たものだと言っていいだろう。
だがその一方で、それらの能力も、引き出したのは彼女自身の力によるものだが、まるでこの世界にあらかじめ用意されていたもののように感じられなくもない。
例えばの話……太古の世界にすでに旋律だけが存在し、それとたまたま同じ旋律を彼女が奏でたのだとしたら……。
所詮、絵空事にすぎないだろうけれど、本当に神の恩恵などというものがあるのだと仮定すればこそ、そんな途方もない発想にも至ってしまうってものだ。
アイの日記と50音表はロベリーが模写をしてから返すということで、ひとまず研究材料として預けることになった。
文字や言語に関するヒアリングはとりあえずここまでで、これから記憶の装置の試運転を行うという。
書類で散らばった台の上をさっとまとめているプルアに、アイは言いにくそうにしながらこう尋ねた。
「もし私が別の世界から転生したという記憶が正しかったら、の話ですけど……どうしてこの世界だったんでしょうか。
厄災と戦うために呼ばれたのだとしたら、討伐後も元の世界に戻されないのはなぜなんでしょう」
プルアはアイの言葉に目をぱちくりさせると、ケタケタと笑った。
相変わらずの金切り声に、僕は悟られぬようひそかに眉を寄せる。
「アイは自分が特別な存在だと思ってるの?」
「いえ、そんなつもりは……!けど、元いた世界がここではない人なんて、自分以外にいるのかな、とは思ってます。もしかしたら、何かの理由で呼ばれただけなのかも、とも。
この世界の人たちと自分の違いを意識してしまう瞬間もやっぱりあって、少し寂しくなるっていうか。うまく言えないですけど……」
「そんな大げさに考えることなのかな?私たちは前世の記憶はないし、そもそも前世なんてものがあるのかどうかも知らない。
けど、記憶がないだけで前世はほかの世界にいたかもしれない。それこそアイのいた世界だったかもよ?証明はできないけど、想像することはできる」
プルアはふう、と息をつくと、両手を腰にあてながらめずらしく柔和な笑みを浮かべた。
「確かに同じ特殊能力を使えるって人はいないかもだし、そう言う意味じゃアイは特別だろうけど。何らかの能力を持ってるのは英傑のみんなも姫様もそうでしょ。
何だったら、私のこの天才的な頭脳もある意味じゃ特殊能力かもよ~?
要するに!”前世の記憶”なんてもんを抜きにして考えちゃえば、アイは私たちと大して変わらないんじゃないかな?」
ふっと思わず笑みがこぼれ、背後の二人を振り返る。
「君にしちゃなかなか思いやりのある言葉をかけてあげてるじゃないか」
「何よそれ。普段の私は薄情とでも言いたいわけぇ?」
「おや、けなし文句に聞こえたのかい?褒めたつもりだったんだけど」
怪訝そうにじろりとにらまれ、目を合わせないように顔を反らした。
何かと突っかかってくるところはアイと似ていなくはないが、アイの場合は言葉に真剣味が感じられるのに対し、この女からは単に僕をねじ伏せる意図しか感じられない。
しかし、世辞もまともに受け取れないとは……。
研究所の職員どもは女性としての彼女も高く評価しているようだが、僕からしたらこんなにかわいげがない女もなかなかいないと思う。
「ま、確かに厄災と戦うために呼ばれた……って可能性もあるといえばあるのかもね。
でも、100年後の未来から来た彼らは役目を終えるとすぐに元の世界へ帰還したのに、あれからしばらく経っても元の世界へ帰る兆しがないということは、やっぱり単なる転移ではなくこの世界に転生した、もしくは単純に戻る術がないのかもしれないし……」
平静を保ちつつ聞いてはいたが、彼女たちが淡々と話す内容に僕は内心穏やかではなかった。
これまで考えもしなかった。いや、考えないようにしていただけかもしれない。
プルアは前向きにああ言ってはいるが、アイが何らかの理由により異世界から来たというのであれば、元の世界に戻されてしまう可能性も残されているわけだ。
期間限定の転移……ということも、あり得ないことはない。
どういった経緯でアイがここに来たのかわからないということが、とてつもなく恐ろしいことのように思えてきた。
「ほらほら、なーに二人とも暗い顔してんの!まだ何にもわかっちゃいないでしょ。
くよくよ落ち込むのは、望まない結果が判明したときでいいじゃん」
「そうですね……ありがとうございます、プルア」
なだめられ笑うアイの表情からは、しかしながら憂色が晴れることはなく。
諦念と微かな希望に揺れるその目は、封印の力が目覚めず苦悩していたころの姫とどこか重なって見えた。
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<記憶に関する研究:第2回目>
アイが前世の世界で用いていたとされる言語・文字についてのヒアリングと、記憶の装置の試運転を行った。
あらかじめ持参をお願いしておいたアイの日記と彼女が書いた50音表というヒラガナ、カタカナの一覧表を確認した。
彼女が用いる言語や文字”ニホン語”は、ハイラルの文字に比べ複雑な字体・文法で、ただの創作と考えるにはいささか無理があるように思えた。
日記の内容をいくつか読み上げてもらったが、特定のページについては顔を赤らめて頑なに拒否するなど羞恥が垣間見えたことも信憑性を高めた要因の一つだ。
しかし、アイが頑なに読み上げようとしてくれなかったページにはいったい何が書かれていたのだろうか。
彼女の様子やリーバルのあの意味深な笑みから大方彼に関することだろうが……解読できないことが非常に残念だ。
記憶の装置の試運転のため、アイとリーバルを台に寝かせ、事前試験の通り頭部に装着させた。
やはり事前試験のときと同じように装着し装置を起動させた途端二人ともすぐさま眠りに落ちてしまった。
二人と意思の疎通を図りながら記録を取れるのが一番良いのだが、やはりそれは難しいようだ。
しかし、一番の目的である記憶の映像化については良好といえる。
余談だが、事前試験ではじめて映像化に成功した際、アイが以前姫の生誕パーティーで言っていた”ドウガ”のことを思い出した。
彼女はドウガのことを”見たままのものを動きもろとも残せるもの”と表現していた。おそらくはこれもその類だと思われる。
今回の実験では、前回ヒアリング時にリーバルが説明していた夢の話と同一と思われる映像の一部を入手することに成功した。
アイがパラセールもなしに空から降ってくるところを、リーバルが窮地を救うという内容だ。
ヒアリング時、彼はこの記憶について覚えがないと言っていたが、この映像を本人に見せた際、何かピンとくるものがあったようで、あともう少しではっきり思い出せそうだと言っていた。
リーバルに関しては、現状、この実験での成果を得る可能性は極めて高いと言っていいだろう。
問題は、アイだ。
今回、記憶の装置によるアイの記憶の映像化は失敗に終わった。
装置の故障かと思いすぐに調べたが、装置自体に問題は見られなかった。
アイが夢で見たとされる映像は微かに映りはするものの、ノイズでほとんど掠れるうえに、占い師アストルが天球儀で見せたというハイラルの未来を予兆した幻影が割り込むため、それはひどい有り様だった。
乗り掛かった船だ。こんなトラブルごときで諦めては研究者の名が廃るというもの。
しばし時間はかかるだろう。しかし、何としてでも映像を鮮明にし、彼女たちの記憶の謎を解き明かしたい。
ひとまずこの世界におけるアイの記憶の映像化は中断し、次回はアイの元の世界の記憶を映像化できないか試すこととする。
プルア
(2021.5.29)