天翔ける:記憶編

プロローグ

木枯らしが吹きすさぶ山の谷間。
崖と奇岩をつなぐつり橋の上で、私は風にあおられながら必死に揺れに耐えていた。

何かにつかまっていないと谷底に吸い込まれそうで、橋板をつなぐ縄にしがみついているのだが、そうすると今度は崖下の水辺がはっきりと見えてしまう。もはやこの場においてはどんな行動も私の精神に深刻な痛手しかもたらさない。
混乱しすぎるあまりいっそこのまま飛び込んで楽になったほうがいいのではなどと危うい考えまで浮かんでくる。

けれど、この心情には違和感を感じている。
私はこれほどまでに高所を怖いと感じた記憶がないからだ。

今までだって、任務で崖沿いなんていくらでも歩いたことがあるし、掴まれるところがほとんどないような岩山に命綱なしで登ったこともある。
手すりもない上に揺れの激しい神獣にだって何度も乗っている。山々よりも高く舞うメドーにだって。

これまでの自分と、今ここでこうして感じているものに矛盾を感じる。
これは、本当に私の感情なのだろうか?

そもそもだ。私は、なぜここにいるのだろう。

そう思い至ってから、ようやく、はたと気づく。
これは、現実だろうか、と。

そして、もう一つ私のなかを占める想い。
この恐怖を乗り越えてでも会いたい人がいる。

これほどまでの恐怖心に逆らってでも自分を突き動かそうとするこの強い想念の理由を知りたくて思考を巡らせるが、先ほどから”怖い”というワードが何度も割り込むせいで答えに手が届かない。
とうとう恐怖が頭のなかを埋め尽くしたとき、耐え切れず声を絞り出していた。

「誰か、助けて……!」

そのとき。私の声に応えるように突風が吹き荒れた。
橋が一層大きく揺れ、目を固く閉じて思わず叫び声を上げる。

大きな布を広げたときのようなバサッという音が頭上で聞こえ、閉じたまぶたの裏側に影がかかるのを感じた。
どさりと何かが降り立つ音とともに、涼やかな声がかかる。

「おやおや、小鹿が橋に足を挟めたのかと思って来てみれば……」

冷笑を含んだ皮肉にそっと目を開ける。
黒くて大きい鷲のようでもあり、鷹のようでもある、いわゆる猛禽類のような足。
見覚えのある翡翠のリング。赤いすねあて。

恐るおそる見上げれば、よく見知る顔の鳥人。
鳥人ーーもといリーバルは、ゆったりと後ろ手を組みながらニヒルな笑みを浮かべると、訝しむように赤く縁どられた翡翠を私に注ぐ。

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「なあ、……アイ!」

ゆさゆさと肩を揺すられ、まどろんでいた意識を無理やり引き上げる。
ぼんやりとする目で焦点を合わせると、怪訝そうに私を見下ろす翡翠と目が合った。
まだ夢を見ているのかと意識をふたたび沈めようとするが、額に鋭い痛みが走ったことにより一気に覚醒する。

「いったあ……!今、何したんですか!?」

カッと目を見開いてにらめば、リーバルの赤い縁取りがおかしそうに弧を描いた。
私のとなりで横になっている彼は、枕にのしかかりながらを肘をつき、手の甲で側頭部を支えるようにして私をのぞき込んでいる。
布団越しに私の上に添えていたらしい片翼をすっと伸ばすと、ヒリヒリ痛むか所にそっと指を這わせてきた。

「やっとお目覚めかい、眠り姫」

寝起きでぼんやりとする耳に、容赦なく吹き込まれるささやき。
リーバルも寝起きなのか、その声は少し掠れいつもより低い。
嫌味な物言いなのに声の艶にどきりとしてしまう私は、もうすっかりと彼に侵されてしまっているらしい。

「なかなか起きる気配がないから目覚めのキスをしてやったんだよ。光栄に思うんだね」

まさかとは思うが、くちばしでつついたのか。
見た目こそ鳥に近いけれど、コミュニケーションやスキンシップは人のそれとあまり変わらないと思い込んでいただけに何だか裏切られた気分だ。

「君が寝ぼすけなことくらいとっくに知ってるけど、今日はいくら声をかけても反応がないから驚いたよ。夢でも見ていたのかい?」

「はい。リトの村に行こうとしてる夢でした。でも橋を渡ってる途中で何だか怖くなってしまって、縄にしがみついて助けを呼んだところにあなたが現れたんです。そこで目が覚めました」

いつも夢なんて断片的にしか覚えていないのに、目覚める直前まで見ていたせいだろうか。今朝の夢は情景やセリフがはっきりと浮かぶ。
私の説明にリーバルは眉間のしわを深めると、何か心当たりがあるようでぶつぶつとつぶやき始めた。

「その夢……僕も見たことがあるような……」

彼の言葉に、私はさして驚かなかった。
私もリーバルも、不思議なことにこうして互いに同じ夢を見ることがある。

はじめはさすがに驚いたけれど、お互いを想うあまり同じ夢を見たくらいに考えていた。
けれど、それにしては頻度があまりに多い。

ガノンとの戦いに備えている最中はアストルの幻影の影響で悪夢を見ることが多かったが、大厄災が終決して以降は、頻繁にリーバルの夢を見るようになった。
それは彼も同じで、このところ私の夢を見ることが多いという。

先日夢の件についてプルア宛てに手紙をしたためたところ、前世の記憶との関連は不明だが、紐解く足掛かりにはなるかもしれないということで、研究材料の一つとして考慮に入れると返事が来た。
そして今日が、まさしくその記憶の研究の初日なのだ。

「今、何時ですか!?」

「9時くらいじゃないの?」

がばっと身を起こした私の肩が、力強い腕によりふたたび布団に沈められる。

顔の両側が彼の肘に挟まれ、黄色のくちばしが目の前に迫る。
布団をかぶっていてすっかり忘れていたが、リーバルも私も何も身にまとっていない。
滑らかな紺の胸板と白い腹部。彼とのあいだに生まれた隙間から朝の冷えた空気がすうっと入り込み、一糸まとわぬ自分の身体を思い出しばっと両腕で隠す。
妖艶な笑みから昨晩の情事がまざまざと思い出され、注がれる視線に耐え切れず顔を背けた。

「何隠してるのさ?キスしようと思っただけなんだけど」

クスクスと笑いながら顔をのぞき込まれ、そろりと顔を上げる。穏やかに細められた翡翠と視線が交わり、とくんと胸が高鳴る。

「さ、さっきしたんじゃないんですか?妙に痛かったけど……」

「ああ、したさ。でも、さっきのは額。次は……こっちだよ」

唇に彼のふんわりと羽毛に包まれた指先がのせられる。
ゆっくりと彼のくちばしが下りて来て、三編みのほどかれた髪が彼の肩に流れ私の首筋をくすぐる。

「……今度は優しくしてあげる」

そっと口付けられたくちばしの先からするりと舌が伸びてきて、薄く開いた私の唇を割って入ってきた。
少し冷えて乾いた口内が、彼の口付けで温められていく。

城での暮らしのときは別々の部屋で眠ることが多かったけれど、こうして二人で過ごすようになってからは毎日一緒の部屋で眠っている。
長い時間二人きりで過ごす機会がこれまでなかったせいかまだ緊張はするけれど、この何気ない時間の一つひとつが新鮮で、すごく幸せだ。

出会ってすぐのころはお互いに険悪な雰囲気で、まさかリーバルを好きになるなんて思いもしなかったし、こうして一つ屋根の下で過ごすなんて考えもしなかった。

飄々としていたかと思えば、執拗にからかってきたり、遠ざけようとしたり。思い返せば、傷つけられたこと数知れず。

そんな彼の心の内側を思い切って覗き見てみたら、不器用なりに優しさがあり、そして一心に愛情を注ぐような人だとわかった。
相変わらず意地悪なこともあるけれど、今やそんなところもひっくるめてリーバルのことが好きだ。

彼の内側をもっと知りたい。私の知らない彼を見てみたい。
そんな想いがこのところ私のなかを占めていて。

記憶の研究にリーバルが参加することになったとき、本当にうれしくなった。
私と彼のあいだに秘められた記憶を知ることができたなら。もっともっと彼に近づくことができるかもしれない。

そして、彼と出会う前に見た、あの草原の夢。

夢から覚めたとき、私は泣いていた。
あのとき流した涙の理由が、この研究でわかるかもしれない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「ハーイ、チェッキー!」

王立古代研究所の扉をノックしようとこぶしを上げた瞬間、勢いよく扉が開け放たれ、思わず仰け反った。

元気に現れたプルアは、犬歯を見せるようにニカっと笑いお決まりのポーズを決めた。
そのポーズは記憶に間違いがなければ私の故郷では「アイラブユー」を意味する視覚言語のはずだが、この世界でも共通なのだろうか。
だとしたら万人に向けポージングをキメるのはちょっと、いやかなり問題があるような気がしないでもない。
しかしリーバルが私の後ろで暢気にあくびをかみ殺し反応を示す様子がないことから、この世界では特に意味を持たない彼女独自のジェスチャーであると判断し、あえて突っ込まないことにする。

「ちょっとちょっと、お二人さん!初日から遅刻ってどういうことぉ?」

扉は幸いにも内側に開かれたため激突は免れたが、代わりにずかずかと外に出てきたプルアの爪に額をつつかれた痛みで顔を歪めることになった。
リーバルのくちばしといいプルアの爪といい、今日は額を鋭利なものでいじめ倒される日らしい。

プルアは額を押さえる私を見て、きゃはは!と無邪気に笑う。
口を閉じてたらなかなかに容姿端麗だと思うけれど、彼女と話していると人柄や口調は見た目の印象を歪曲する何かがあるなとつくづく感じる。
生真面目が服を着たようなインパが彼女の実の妹だということが未だに信じられない。
際立った性格といえばリーバルもそうだが、彼は自分のイメージに合った振る舞いをしているような気がしなくもないので、彼女に比べれば見た目と言動にはギャップを感じたことがないかも。

「ごめんなさい、プルア……。ちょっと準備に時間がかかってしまって」

「冗談よ、冗談。そんな深刻そうに謝らなくてもいいって!
私たちもさっき準備が整ったところだし、かえって待たせずに済んでちょうど良かったわ」

明るい声色で取りなしたプルアは、のぞき込むようにして私の後方に視線を送る。
腰に手をあてて研究所の周辺をきょろきょろ眺めていたリーバルは、彼女の舐めるような視線に気づくと、ばつが悪そうに顔をしかめふんとそっぽを向いた。

私ももう少し早く起きていれば迷惑をかけるようなことにはならなかったかもしれないが、あのあと流れで昨晩の続きに持ち込もうとした彼にも責任の一端は確実にあるのだ。
あのまま流されてしまっていたら、研究は取り止めだなんて言われていたかもしれないと思うとひやひやする。
いくらプルアが寛容とはいえ、ここは一言ちゃんと詫びを入れてほしいところだが、私が穏便に諭したところで素直に聞くような人ではない。
インパやウルボザがここにいてくれたら、渋々ながらでも詫びを入れてくれただろうに……。

露骨に煩わしげな顔でため息までついて、なかなか反省の意を示そうとしないリーバルの態度に、再度詫びの気持ちを込めてプルアに苦笑を向けるが、彼女は先ほどから特段怒った様子はない。
そんな様子だからこそかえって得体が知れず、妙に恐怖心を掻き立ててくる。
このへんな空気に嫌な予感を覚え始めたころ。プルアは何を思ったのか、腕組みをすると小首をかしげ口角をきゅっと持ち上げた。

「はは~ん?さては、約束の時間を忘れていちゃいちゃしてたりして」

「プ、プルア!」

核心を突かれうろたえる私に反しリーバルは動じるどころか涼やかに笑みを浮かべ、対抗するように腕組みをした。
まるでそうくるとわかっていたかのように、事前に用意していたであろうセリフをかぶせ気味に突き返す。

「僕らがいつ何をしてようと君には関係ないだろ。
そっちこそ、ロベリーとデキてるんじゃないの?尻に敷いてるってもっぱらのうわさだぜ」

そんなうわさ一度も聞いたことがない。大方彼のでっち上げだろう。
プルアはリーバルの挑発にも動じることなく、日頃の誰かさんのようにあごを高く持ち上げ冷笑を浮かべた。

「この私と?ロベリーが?ばっかじゃないの?」

おどけたようにそう発した口は笑っているが、目はまったく笑っていない。
“馬鹿”という単語にぱちくりと瞬いたリーバルの目がすっと座る。

「誰が馬鹿だって……?」

「あ、傷ついちゃった?ごめんね~、つい口が滑ったわ!
しっかしこの程度の挑発に易々と乗っちゃうなんて、リトの英傑サマも案外チョロいもんねぇ」

「プルア!そのへんに……」

リーバルの殺気を背中越しに感じながらプルアを抑えようとするが、彼女はすっかりリーバルを手玉に取った気で高笑いまでして収拾がつかない。
いっそ先に入らせてもらってロベリーを呼びに行こうかと考え始めていたとき。

スパッと私の横髪すれすれに何かが過ぎていった。
研究所の入り口にカッと穿たれたものに、恐るおそる見返ると、こめかみに青筋を立てて弓を構えるリーバルが次の矢をつがえているところだった。

「あら~弁で勝てる見込みがないとわかったら今度は実力行使?そんなことして、後で怖い目見ても知らないわよ?」

「心配無用だよ。今ここで、その無駄によく回る口を二度と聞けなくしてやれば済むことだからね!」

「二人とも、いい加減にしてください!!」

こぶしを固めて声を限りに叫び、プルアを背にかばい両手を広げた。
リーバルに対峙しきっと目を見据える。

「リーバル、約束の時間に遅れたのは私たちです。きちんと謝って」

リーバルは心底驚いたような顔で私の顔をまじまじと見つめてしばし固まっていたが、はっと表情を引き締めると、渋々弓と矢をしまった。

「はいはい……。遅れたことに関しては謝罪してあげるよ」

そこに気持ちが一片たりとも込められていないのは明らかだが、プルアはその言葉が聞けただけで良しとしたらしく、にっこりと笑みを浮かべると、さ、入って入って!とようやくなかへ誘導し始めた。

リーバルは舌打ちをしながら私の横を通り過ぎると、研究所の壁から乱暴に矢を引き抜き矢筒に収めた。
その眉間には彫刻刀で掘ったような深いしわが刻まれ、どす黒い悶々とした気を放ちながら奥の暗がりに歩いていく。

インパとの一騎打ちの件といい、リーバルはこのシーカー姉妹とはことごとく相性が悪いらしい。
初っ端からこんな様子で大丈夫だろうか……。

ようやく気持ちが落ち着いてきたと思ったころにまた嵐の予感。
これからどのくらいの期間か、彼らの険悪なやり取りをそばで見届けなければならないのかと思うと、先行きが思いやられる。
大厄災以上の波乱はない。そう願いたいところだ。

(2021.5.23)

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