冷たい。いや、痛い……?
刺すような痛みは頬から背中、そして四肢へと渡るように広がり、意識がはっきりしてくるころには自分の身に起きたことを思い出し冷や汗が噴き出していた。
恐怖か寒気か。手足が小刻みに震える。
自分がしがみついていた断崖が雪煙で見えないほどの高さから落ちたのだ。死んでもおかしくなかった。
「い、生きてる……」
強く鼓動を打つ胸に何とも言い知れぬ安心感を覚え、目に涙がたまる。
「ぐ……っ」
苦しげにうめく声に我に返り、重たい首を持ち上げ声のした方を向く。
少し離れた場所に、仰向けに横たわりぐったりとするリーバルの姿を見つけ、愕然とし声を失った。
平静を欠きそうになるが、気を奮い立たせて身を起こすと、ふらつきながらも彼の側に膝をつく。
私が動ける程度のけがで済んでいるのは、あのときリーバルが身を挺してくれたおかげだ。
私を引き上げようとして一緒に落ちた彼は、私が下敷きにならないようにかばいながら危険を承知の上で護ってくれた。
そのまま落ちていたらひとたまりもなかっただろうが、彼が機転を利かせ落下時の衝撃を和らげるように翼を広げてくれたからこそ、私は無事でいられる。
けれど、私を護ったばかりに、リーバルに深い傷を負わせてしまった。
ところどころ剥がれた羽毛の隙間から血が滲む傷だらけの身体は、カースガノンとの戦いを脳裏に鮮明に映し出す。
「リーバル……リーバル、しっかりして……!」
名を呼ぶ声が震える。もう二度と、あんな思いはしたくない……!
彼の肩をしきりに叩いていると、ゆらりと持ち上げられた手が私の手に重ねられた。
「頼むから、揺らさないでくれるかな……。ちょっとの刺激でも結構キツイんだよね……」
薄っすらと開かれた赤い縁取りから覗く、気だるげな眼。
僅かに開かれた目は確かな生気を感じさせ、また目頭が熱くなる。
「良かった……!」
ぼろぼろと泣く私にリーバルは力なく笑みを浮かべると、かすれた声で毒づき始める。
「君はつくづく泣き虫だね、アイ……」
また涙が溢れそうになるのを堪えてぐいっと服の袖で拭うと、震える手でトラヴェルソを構える。
「そんな笛に頼らなくたって、歌でも術を使えるんじゃなかったっけ……?」
「そんな笛なんて心外。……この笛は、あなたが贈ってくれた、私の大切な大切なお守りなんだから。それに、歌よりも音程が安定するし……」
「ふーん……歌に自信がないんだ……?」
「……いいから黙って」
弱々しい姿を見られることへの羞恥か、それともまた遠回しに私を鼓舞しようとしているのか。
いずれにせよ、こんな状況にもかかわらずいつもと変わらぬ軽口を叩く彼に、少しずつ心が軽くなってゆく。
そうだ、落ち着こう。彼はこうして無事に生きてるんだから。私がちゃんとしないと。
深く息を吸い込むと、トラヴェルソの音を奏でた。
身体の傷を癒した私たちは、はぐれてしまったゼルダとリンクと合流すべく、上空から周囲を確認することにした。
谷間を斜面に沿って飛ぶリーバルの首にしっかりと腕を絡め、極力下を見ないように意識する。
凍り付くような冷気のなか、しがみつく彼の背だけが唯一の温もりだ。
こうして身を預けるのはいつ振りだろう。
逞しくしなやかな首筋。皮膚に添うように生えそろう羽毛の感触も、その深い色味も、何だかとても懐かしい。
半年……。たった数か月と言い換えればあっという間だったかもしれないが、彼とは出会ってからほとんどの時間をともに過ごしていたせいか、何年も離れていたような感覚だ。
転落した場所が近づくにつれ、先ほどと気象状況が大きく変わっていることに気づく。
あれだけ荒れ果てていたはずの山岳は、薄ぼんやりと頂上が見えるほどに穏やかだ。
「風、収まったんだ……」
「どうやらそのようだね。ま、大方誰かさんが元凶を仕留めたんだろ。まったく……あいつがかかわると見せ場を奪われてばかりだよ」
「リンクが奪ったんじゃなくて、あなたの意思で、その見せ場を手放したんでしょう?」
彼がごくりと唾を飲んだのが、首が上下した感触で伝わってきた。肩越しにこちらをひと睨みしてくると、ふんと鼻であしらわれた。
「……うるさい。わかったみたいな顔するんじゃない。人の言動を都合よく歪曲するなんて野暮だね」
矢継ぎ早に思いつく限りの悪態を繰り返す彼に、込み上げてくる笑いをどうにか堪えると、肩口に頭を預けた。
「……私をかばったばかりにあなたが大きな怪我をしたこと、あなたを失いそうで、怖かった。けど、そうまでして体を張ってくれたこと、嬉しかったよ。それに……すごくかっこ良かった」
リーバルの肩が僅かに跳ねる。少しの沈黙のあと、彼は小さく息を吐くように笑みをこぼした。
「それはそれは。光栄の至りだね」
「それに、あんな状況、あなたじゃなかったらきっと二人とも助からなかった。……リーバルがいてくれてほんとに良かった」
「……ま、当然だね。惚れ直しただろ?」
私に対抗するように冗談めかしてキザなセリフを返してくるが、平静を保とうと必死なことくらいとうに気づいている。
だから私も、からかい交じりに本心を伝えたくなる。
「惚れ直すも何も……ずっとそうだよ。好きの度合いが強くなっただけだから」
思った通り、今度は明らかに唸った。こういうときほどわかりやすい反応を見せてくれる。
「……そんな小恥ずかしいこと、よく言えるね」
「それはリーバルだって同じでしょ」
ふたたび肩越しに送られてきた視線は鋭いが、覇気が感じられない。
リーバルは深くため息をつくと、ほんの少しだけ目尻を下げた。
「僕がいて良かった、か……。こんな役どころも、たまには悪くないかもね」
「……え?」
「別に、何でもないよ!」
唐突に高度を上げた彼に何が起こったのかわからず悲鳴を上げ、必死にしがみつく。
ばさりと広げられた翼の音とともに負荷がかかった身体は、水平になったと思ったときには軽くなった。
雲間からすっかり高くなった陽光が髪を照らしたとき、崖の縁でこちらに大きく手を振るゼルダと、彼女が身を乗り出さないように手をうろつかせるリンクの姿を見つけた。
(2022.07.27)