暗雲立ち込める闇夜。
音もなく瞬く遠雷が光るごとに強くなる雨足。
足のシルエットが辛うじて見えるほどの闇の中、揺らめく不気味な単眼。
赤い照準から身を隠すべく、甲板に横たわったままの体をあらん限りの力を振り絞って柱の陰まで引きずっていく。
間一髪。身を潜ませたと同時に光線が放たれ、柱の角に焼け跡が焦げ付いた。
闇のなか、二人の荒い吐息だけが絶え間なく続く。
「ぐうっ……!!」
激しいうめきとともに彼がえずき、床に吐き出されたものが、水たまりを伝って私の手に流れ着く。
生暖かい鉄のにおい。まさかと思った瞬間、遠雷がふたたび辺りを照らし、赤く染まる自分の手と、血にまみれた彼の姿を照らし出した。
あわてて腰に手をあてるが、いつも持ち歩いているはずのトラヴェルソが見当たらない。
どうしてこんなときに……!
周囲を手探りで探している間にも、膝に吹きかかるの吐息が次第に浅く、遅くなっていく。
彼の身からあふれ出るものが広がるごとに雨水のかさを増し、追随するように焦燥に駆られた鼓動が速度を増してゆく。
私にはどうすることもできないと気づきたくなくて、古傷にまみれた彼の胸当てを手でまさぐって意識を保たせようと声をかけ続ける。
その手を、大きな手に強い力で掴まれ、無理やり引き寄せられた。
胸当てに押し付けられた額がズキズキと痛むが、その痛みさえ狂おしいほど愛しくて。
「アイ……」
吐息の合間に掠れた声で名前を呼ばれる。
「アイ……」
繰り返される名前に、嗚咽を押さえながら声を振り絞って、はい、と答える。
「アイ……” ”」
紡がれた言葉に息を飲んだとき。
私の腕を掴む手から、頭を押さえ付ける手から、力が抜け、ばしゃり、と水のなかに落ちたのがわかった。
聞こえる呼吸音は、一つだけになった。
私の腕にかかったままの手をぎゅっと握り締め、胸当てを力いっぱい揺する。
「……!!……!!!」
声を限りに叫んだ名は雨音にかき消され、ついに届くことはなかった。
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「アイ様!!」
大きな声で呼びかけられ、肩がびくっと震えた。それにより夢想に没入していた意識が引き上げられる。
ざわつく胸をぎゅっと押さえながら視線を上げると、深刻な面立ちで私の顔をのぞき込むインパと目が合った。
「アイ様、大丈夫ですか?顔色が良くないようですが……」
彼女の顔を見て、今の状況を瞬時に思い出す。
「だ、大丈夫、です……」
何とか声を絞り出した私に、インパはなおも励ましの言葉をかけてくれたが、ぎこちなく笑みを浮かべてどうにかごまかした。
インパ伝に、神獣を持ち場に着かせるようゼルダから繰り手たちへの伝令を頼まれた。
ウツシエの解析結果によると、明日、ゼルダの誕生日に厄災ガノンが復活してしまう。
ゼルダは未だ目覚めぬ封印の力の修行のため夕方泉に赴くとのことで、リンク、インパはそれに同行するそうだ。
本来は私も同行するはずだったが、みんなへの通達も兼ねて神獣の調整を一任されたため、これから一人各地に向かう。
ゼルダのお祝いから数日。
繰り手のみんなは来たる厄災復活に備えて神獣操作の訓練に集中するためそれぞれの故郷に戻っている。
そのためリーバルともしばらく会えない日が続いていた。
インパからの近況報告によれば、変わらず元気にしており訓練も順調とのこと。
これまでは寂しさはあってもまだ耐えられた。
苦痛を覚えるほどの悪夢を毎晩見せられる今、そんな気休め程度で安心できるほど胸中穏やかではない。
近くにいないことが、こんなにも苦しい。
割り切らねばならないことだと頭ではわかっている。そんな不確かな妄想に囚われている場合ではないことも。
繰り返される夢がもし現実に起こるものだとしたら。
憂苦に苛まれ続ける掻きむしりたいほどの心情から一刻も早く解放されたくて、迷わず引き受けた。
プルアの働きにより各地への移動にワープを使えるようになったおかげで、みんなへの伝達はスムーズに行うことができた。
神獣と一体と言っていいほど操作もそつなくこなし、これなら厄災復活後の戦いにおいても存分に力を発揮してくれるはずだ。
リーバルは繰り手を任されてから早い段階で神獣を乗りこなしていることに加え、メドーは飛行型だ。
そのためすぐに持ち場へ移動できることを考慮し、彼への伝達は最後に向かった。
ヘブラの塔に到着するころ、ヘブラ地方はすでに陽が隠れ、薄暮の空に小さな星が煌めき始めていた。
寒空に雪がちらつき、吐く息の白さにトーガの前をしっかりと閉じる。
急いで塔の上にワープすると、台座の前にリーバルの姿を見つけた。
彼は腰に手をあてながらあごに手を添え、何か考え込んでいるようだったが、私の出現に気づき顔を上げると目を見開いて顔をほころばせた。
「アイじゃないか!今日は泉へ向かうんじゃなかったのかい?」
私がここへ来るのが予想外だったらしくリーバルは嬉々とした様子で早足に歩み寄ってきたが、すぐにはっと表情を引き締めて一つ咳払いをすると、後ろ手を組んで顔を反らせた。
「まさかとは思うけど……責務を放り出して僕に会いに来たんじゃないだろうね?」
細められた翡翠が疑るように私を捉える。
たった数日離れていただけなのに、いつもそばにあったはずのその姿がひどく懐かしいもののように思えて、今すぐに縋り付いて泣き叫びたい衝動に駆り立てられる。
「……そうかもしれませんね」
リーバルはぎょっとした顔で真っすぐに私を見据え、両翼をさまよわせている。
それもそうだ。私は今、とてもひどい顔をしているはずだから。
私の両肩にそっと手を置いて本当に心配そうな顔でのぞき込んでくるもんだから、顔でも洗ったように頬がびしょぬれだ。
「何かあったんだろう……?」
私は喉がひくついて言葉にならず、しゃくりあげながら必死にうなずく。
あんまり優しくされるもんだからそれがまた余計に泣けてくる。
リーバルはそっと引き寄せると、私が落ち着くまで後頭部をポン、ポンとあやすようになでてくれた。
「つまり、その何とかっていう占い師が、コログの森で君にその夢と同じ情景を見せてきたってことかい?」
いつになく真剣に聞いてくれたリーバルは、私のつたない説明を要約した。
その通りです、とうなずく。相変わらずの飲み込みの早さと適応力の高さに助けられる。
彼は体育会系だとばかり考えていたが、意外と勤勉なのだろうか。いずれにせよ地頭がとても良いと思う。
この世界を見下げるつもりはまったくない。むしろ大らかな人の多さに日々驚かされるばかりだ。
けれど、少なからず文明や文化の発展具合が人の心の柔軟性につながっているものだとばかり思っていた。
私が元いた前世の世界では、文明が発展し自由な文化が形成されていくにつれ、色んな考えの人にあふれてゆき、多種多様な人との関わりのなかでいろんなものに触れて偏見が削がれ、柔軟性を身に着けていったように思う。
彼がもし私がいた世界の住人だったとしても、何だかんだうまくやっていけただろうな……。
「……はい。彼は、その情景が未来に起こるものだと明言していました」
「ふうん、予言ってわけ。内容がすでにシャクだってのに、奴の予言かと思うと余計に虫唾が走るな」
リーバルは不愉快そうにはしごの上の手すりに立つと、眉を寄せながら後ろ手を組みリトの村の巨岩を見上げた。
いつも手すりや縁際に立っていつか落っこちやしないだろうかとよぎるが、よくよく考えてみればリト族なら万が一落ちてもその翼で危機を免れるのかもしれない。
「リーバルは、怖くないんですか……?」
「怖い?この僕が?」
こちらを振り返り胸に手をあてるリーバルは、予言なんてなんのそのと言いたげに目を見開いている。
「おいおい、見くびってもらっちゃ困るよ。
あんなものはただのデタラメだ。
今まで散々一緒にいておきながら、僕の戦いの何を見てきたんだい?」
自信に満ちた言葉……。
そうだ。彼はいつだって言葉に見合うだけの力を発揮してきたじゃないか。
アストルが作った幻影をも倒し、彼自身も必ず退けてきた。
だけど今回は。今回に限って、これまでとは何かが違う気がする。胸騒ぎが収まらない。
うつむき胸を押さえる私に小さくため息をつくと、リーバルは、すとん、と手すりから降りて私の正面に立った。
頭にぽふっと翼が乗せられ、そのまま両肩をぐっと掴まれる。
「いいかい、アイ。僕はあんなまやかしには屈しない。
……それが何故だかわかるかい?」
彼の言葉をちゃんと聞きたくて、うつむかせていた顔を上げ、真っすぐに私を見つめ続ける翡翠と目を合わせた。
彼は少し気恥ずかしそうに顔を反らしたが、すぐに真剣な顔つきになり、じっと私を見つめこういった。
「このオオワシの弓にかけて君を守り通す。そう誓ったからだ」
ざあっと吹き上がった突風とともに細雪が舞い、彼の三つ編みと私の髪をさらう。
どくん、どくん、と鼓動が鳴り響く。
「その言葉……どこで……」
その時は、唐突に訪れた。
あたりに舞う雪の一片ひとひらが赤く染まったかと思うと、赤黒い暗雲が空を一瞬にして支配した。
遠方のハイラル城から膨大な黒いもやが渦を巻きながら立ち昇り、怪物の影がけたたましい咆哮を天に放つのが見える。
「厄災……ガノン……?復活は、明日じゃ……!?」
「これは、まずいんじゃないの?
ハイラル城が厄災の手に落ちたってことは……」
床の点滅に気づいたリーバルが確認しようと近づいたとき。
塔が大きく揺れ、青の光源が絶たれた。一目でその機能が停止したことを理解した。
「うわあっ!!」
唐突な揺れに体勢を取り損ねた私は、なんとか地から足を離すまいと後ずさりした。
けれど、この狭い塔のなか足の踏み場があるわけもなく。
後ろを見なくてもどうなったのかくらい強烈な浮遊感で嫌でもわかる。
掴めるものなんてないが最後のあがきで精一杯手を伸ばす。
「アイ!!」
間一髪、リーバルが私の腕を掴み、引き寄せた。
力強く引かれたせいで胸当てに額が強かにぶちあたる。
「いたた……」
「まだ厄災と対峙してもいないのに死にかけてどうするんだい!」
リーバルは腰に手をあてると人差し指を突き立ててすごい剣幕で怒鳴りつけてきた。
「ご、ごめんなさい……」
もっともすぎて何も言えないが事故は事故だ。
だけど、その通りでもある。こんなところで死ぬわけにはいかない。
あの予言が本当だとしたら、何としてでも彼を助けないと……。
私の謝罪に「やれやれ」とため息混じりに苦笑を浮かべたリーバルは、その顔をすぐに引き締め片翼を広げた。
「僕はこれからヴァ・メドーに乗り込み、狙撃の準備に入る。
君は、一刻も早くここから離れるんだ」
「だめ!!」
飛び立とうとしたリーバルに、必死にしがみつく。
「な……いい加減にするんだ!
一刻を争う事態だってこともわからないのか!?」
無理矢理引きはがそうとしてくる翼に負けまいと、彼の腰に回した手により力を込める。
「わかってますよ!
でも、あの予言が本物だとしたら、メドーはもう厄災が作った魔物に乗っ取られているはず。
あの魔物が放つビームの射撃性能は正確です。その上つむじ風を発生させて気流を乱してもきます。
対リーバル用として造り出されたと言っても過言じゃないような相手なんですよ!!」
「だとしてもだ。挑む前から諦めるなんて、ありえないよ」
「リーバル!」
「僕が信じられないって言うのかい?」
リーバルの言葉にはっとして顔を上げる。
彼の顔が怒っているようにも悲しんでいるようにも見え、私は腰に回したままの腕をそっと離す。
リーバルはため息をついて腕組みをし、眉間にしわを寄せながら私をじっと見下ろしている。
彼の力を疑ったことはない。とても強い人だとわかっている。
けれど、だとしても。
もしこれで彼が死んでしまったら、私は背中を押したことを一生後悔してしまう。
「そんなの、ずるいですよ……。
これで最期かもしれないのに……!」
両手をきつく握りしめ、歯を食いしばる。
どんな言葉も、彼にはもう届かない。あの夢の通りになってしまう。
彼がいなくなってしまったら、この世界で私は、本当にひとり……
「アイ」
頬に彼のあたたかい翼が添えられ、上向かされる。
おもむろに彼の顔が近づいてきて、唇に、硬いくしばしの先がそっとあてられた。
赤に縁どられた翡翠が眼前にそっと姿を現し、優しい色を湛えて私に注がれる。
「僕は君を信じなかったことがあったかい」
ぐっと息を飲む。
「……いいえ」
彼は、いつだって私を信じてくれた。
私が別の世界からここに転生したという話だって、笑い飛ばさずに聞いてくれた。
“君は君だ”。そう言って。
「リーバルは、いつだって受け入れてくれました。
こんな私のことを……」
ふっと小さく笑うと、彼は目を閉じた。
「そうだろ?だったら君だって、僕のことを信じなよ」
「……とっくに信じてるに決まってます」
「ふうん?ならいいけど」
リーバルは踵を返すと、後ろ手を組んで肩越しにこちらを見やりながら人差し指を立てた。
「それじゃ、特別に一つだけわがままを聞いてあげるよ。
君にはこれから僕の援護をしてもらう」
耳を疑い、えっと声を上げる。
「さっき、ここから離れろって……」
「どうせはじめから聞く気なんてなかったんだろ?
だったらとことん付き合ってもらうまでだ」
その言葉に嬉しくなって、こぶしが震える。
彼と行動をともにできるのなら、まだ、やれることはある……!!
「わかりました。必ず守ります……!」
こぶしにぐっと力を入れてそう宣言した私にリーバルは小さく噴き出すと、両の手を広げておどけた。
「おいおい、逆だろ?」
リーバルはもう一度ぐっと背中を引き寄せると、私の頭にくちばしを擦りつけ、ささめいた。
「僕が君を守る。……必ず」
それに応えるように背中に手を回し「私だって負けません」と返すと、いつも通り鼻で笑われてしまった。
彼のことを信じよう。
あんな予言なんかに怖気づいている場合じゃない。
このトラヴェルソにかけて……
ガノンが造り出した魔物を、何としてでも打ち倒して見せる。
(2021.4.29)