ヘブラ地方のとある森のなか。
木の枝に実ったリンゴを打ち落としては、その下のかごに入れていく。
動かない的を射るなど、たわいもない。
弓を引き絞ると、もう一度、リンゴと枝のあいだのへたを狙った。
一瞬、フード越しに僕を見つめるアイの顔がよぎる。
「……チッ」
矢はリンゴのすぐ横をすり抜けて弧を描き、さらに奥の地面で草の芽をむさぼっていたウサギの脳天を打ち抜いた。
弓を下ろすと、倒れたウサギの側に寄り、膝をつく。
痛みを感じる間もなかっただろう。
胸に片翼をあててしばらく目を閉じると、その小さな頭部に深々と刺さる矢をそっと抜いてやった。
アイが僕のことを仲間以上に意識していることくらい、彼女の仕草や表情を見ていれば手に取るようにわかる。
フードで顔を隠していたときから感情の起伏は目立ったが、素顔を明かし表情が読み取れるようになってから、周囲に向けるそれと僕に向けるそれには明らかに性質の違いがあることに気づいた。
このところの僕に対する態度には、それが顕著に表れているように感じられる。
アプローチを仕掛けてくることはないものの、リンクやダルケルとはフランクに話すくせに、僕が話しかけるとあからさまに動揺するからだ。
ただ話をするだけでも、すぐに目を反らしたり、頬を染めたりと、いちいち照れが混じっていて、こっちまで恥ずかしくなってくる。
他人の感情のニュアンスには元より敏感なほうだが、彼女の場合、正直わかりやすい。
本人は隠しているつもりかもしれないが、あれだけ露骨に表れていれば、僕だけでなく、周囲に気取られていてもおかしくない。
きっかけは……おそらく、あの満月の夜だ。
数週間前の夜。
アイは、あんな夜更けに羽織一枚で、濡らした髪をそのままに、一人で笛を吹いていた。
終始僕の軽口に空元気で付き合ってはいたが、ふとした瞬間にちらつかせる表情はどこか物悲しげで、何かに怯えているようで。
コログの森から帰還して以来、それまで以上に楽器の特訓に励んでいるのを見かけるが、どこか逼迫した様子だ。
任務の合間の休息中も、仲間との会話に笑みで応じつつも、虚空を見つめていることが多くなった。
コログの森で遭遇した男に何かを吹き込まれたのは間違いないだろう。
けれど、彼女はそのことを誰にも相談しようとしない。
打ち明けてくれれば、それなりに対処のしようもあるかもしれないというのにだ。
アイを見ていると、なぜかもどかしくなる。
おどおどしているかと思えば、正義感が強く、何事にも寛容かと思えば、この僕にさえ物怖じせず意見する。
他人のこととなると自分のことのように胸を痛めて節介を焼きたがるくせに、自分に深く関わることで何か不安に思うことがあると、途端に心に鍵をかけて誰にも踏み入らせようとはしない。
けれど、あの日の夜だけは違った。
その憂いの正体こそ示してはくれなかったものの、別の片鱗をちらつかせた。
あのとき僕は、彼女の機嫌をうかがうつもりでも、慰めるつもりがあったわけでもない。
けれど、その何とはなしに告げた言葉こそが、どうやら彼女の望むものだったようで。
フードの奥から僕を切なげに見つめる目が、赤く染まった頬が、彼女の心を鮮明に映し出していた。
鍵を、こじ開けてやりたい。
あんな目で見つめられたせいで、奥底に押し込んでいる欲望を、つい表に出してしまいそうになった。
けど……無理にでもこじ開けてしまったとしたら、彼女は僕を遠ざけようとするだろう。
それだけじゃない。
そうするということは、僕自身が閉ざしている扉の内を覗かせてやることにもつながりかねない。
コログの森で彼女がフードの男に触れられているのを見て、腹の底から憤りを感じた。
あんなに心をかき乱されたことは、これまで一度だってないと言っていい。
ガノン討伐の要にこの僕ではなくリンクが選ばれたときでさえ……。
しかし、あの感情を単に恋慕と履き違えるには早計だ。
何せ、彼女とはまだ出会って三月ほど。
単純に、知り合い以上には心を置ける程度の関係にシフトしたに過ぎない。
顔見知りだらけの村内では得がたい新たな交流に、柄にもなく高揚感を覚えている。大方そんなところだろう。
ましてや、今はハイラルの命運がかかった一大事だ。
この窮地に、感情に身を任せて恋愛に投じるほど子どもじゃない。
それに……。
男女とはいえ、僕らは所詮リトと人間。
仮に、本気で恋愛感情が芽生えたとしても、種族の壁を取り払うことなど……到底できやしない。
だから、今日も僕は。
彼女をからかっては恥じらう姿を見て、満足するふりをする。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
叙任式から数日。
ゼルダはこれまで以上に厄災ガノンを封印する力の修行と遺物の研究に没頭していた。
何をしても良い結果が得られず、そのたびに国王から叱責を受けているらしく、以前より顔が曇っていることが多くなった。
厄災ガノン復活の兆しは今のところまだ見られないが、その日は刻一刻と近づいている。
みんなのピリピリした様子が彼女にも伝わり、より焦りを感じさせてしまっているように感じる。
そんなゼルダの姿を見ているのが、私には耐えられなかった。
まるで、鏡のなかの自分を見ているようで。
彼女の心を解きほぐしたい。
そんな想いに突き動かされたのだろう。
ヘブラ地方、クムの地にて。
ウッコ池を小舟で渡り、近辺の祠の調査を行ったあと、一度昼休憩をはさむことになった。
ミファーは槍の鍛錬をするとのことで、ダルケルと二人で広い場所を探して出かけてしまった。
お昼ができるころには戻ってくるという。
ウルボザは兵士を従えて薪割りに、リーバルは「このあたりは雪に埋もれて山菜や木の実が取れない」からとわざわざ雪のない森まで飛んで取りに行ってくれている。
リンクは、残った兵士たちとテントを設置している。
これから城へ帰還するには遠いので、このまま数日、ここを拠点に周辺の調査に専念するとのことだ。
食事当番の私は、このあいだに食事を作ることにして、焚き火の側に集められた木箱から食材を取り出している最中だ。
平かごに、とれたてのマックスサーモン、野菜、バターなどを乗せていく。
牛乳と小麦粉は……あっちの箱かな?
手近な箱にかごを置き、牛乳と小麦粉を取り出していたとき、ふと焚き火の前に座り込むゼルダに目をとめた。
彼女は物思いにふけるように、膝に置いたシーカーストーンに目を落としている。
悲痛なその目に胸が張り裂けそうになり、声をかけずにはいられなかった。
「……ゼルダ」
呼びかけに、ゼルダは目を見開いて私の顔を見上げた。
私は彼女の足元にひざまずいて、不安に染まるその目を真っすぐに見据えた。
敬称を省くなど、越権行為だとわかってはいる。
けれど今は。今だけは。
姫と英傑ではなく、友人として、彼女に接したかった。
「陛下は……お父様は、あなたのことを決して見放しはしません。
物言いこそきついかもしれませんが、それは心を鬼にしておられるだけ」
ゼルダの目に一瞬光が差したが、すぐに影を落とし、顔を伏せた。
「ですが……私がどんなに誠意をもって接したところで、父に私の言葉は届かないのです。
私が、いつまでも未熟なままだから……」
私は、ぶんぶんと首を振った。
「いいえ……いいえ!
このご時世に、一人の父としてではなく、一国の王として娘であるあなたにも毅然とした態度で接さねばならないのは、陛下にとっても、とてもつらいことだと思います。
ですが、表には出さずとも、胸の内では、あなたのことを誰よりも深く愛し、信じておられるはずです」
膝の上で小さく震える華奢な手を取り、あたためるように両手でぎゅっと握り締める。
「どうか、建前としての言動に惑わされることなく、お父様の心に秘められた真意こそ信じてみませんか」
ゼルダは堰を切ったように涙をあふれさせた。
シーカーストーンが彼女の涙で濡れてゆく。
私たちのやり取りの様子をそばでじっと見守っていた白いガーディアンは、ゼルダを慰めるようにあの曲を奏で始めた。
その音色に、私もつられて泣きそうになる。
目尻に浮かんだ涙をそっと指で拭うと、すくっと立ち上がった。
「よし!……じゃあ、私、お昼ごはんを作ってきますね。
えっと、ガーディアンくん……でいいのかな?ゼルダ様のこと、守ってあげてね」
ガーディアンは、任せて!と言わんばかりに高い音を発して、足を一本かかげた。
材料を抱え、少し離れたところに組んだ石のかまどに向かう。
すでに火起こしは済ませてくれているようで、新しくくべられた薪にもしっかりと火が回っている。
ダルケルが設えた、大きな岩と薄いプレートのように削られた岩を組んだだけの大きな作業台。
そのかたわらに、材料を洗うための桶と食器洗い用の桶に水が張られている。
作業台に材料の入ったかごや牛乳びん、調理器具などを並べていく。
材料の不足がないことを確認し終え、うなずくと、両の頬をたたいて意気込む。
「よーし、やりますか!」
手始めに野菜の泥を落とすべくガッツニンジンとジャガイモを手にしゃがんだときだった。
「今日の昼食はシチューかい?」
「きゃあっ」
背後から唐突に声をかけられ、思わず悲鳴を上げてしまった。
手元に集中しすぎて、背後を取られていることにまったく気づいていなかった。
振り返ると、リンゴやキノコがいっぱいに入ったかごと、なぜか、さばかれたウサギの肉を軽々と片手に抱えたリーバルが、きょとんとした顔で私を見つめていた。
もう片方の手には、食べかけのリンゴが収まっている。
彼の負けん気は得意分野に留まらず、こうした雑用においても発揮されるようで。要するに、仕事が早い。
「リーバル、おかえりなさい。
まったく、いちいちびっくりさせないでくださいよ……」
「別に、びっくりさせたつもりはないんだけどな。
それにしても、こんな簡単に背後を取らせるなんて、君もまだまだ半人前だねえ。
ま、この僕が相手じゃ、いつまで経っても隙だらけだろうけど」
飄々とそう言って退け、かじりかけのリンゴをぽいと口に放り込んだ。
うまくやりおおせたと言わんばかりの笑みを浮かべながら咀嚼している彼の様子から、わざと足を忍ばせたのだとわかる。人の気も知らないで、心臓に悪いことをするんだから……!
未だに動揺しているのを悟られないように、桶に視線を戻す。
「……お昼ごはんは、マックスサーモンのシチューです。
この辺りでとれるマックスサーモンは特においしいので、ぜひ一緒に煮込みたくて」
すると、リーバルは珍しく嬉しそうに笑った。
高笑いではない自然な笑い声に、思わずもう一度彼の顔を見上げる。
「そうだろ?ヘブラのマックスサーモンは脂乗りが良くて格別なんだ」
誇らしげでありながら、あどけない笑顔に、どきんと心臓が跳ねる。
こんな顔もするんだ……。
日頃ぶっきらぼうな彼が、こんなとびきりの笑顔を見せてくれるなんて……マックスサーモンをチョイスして良かった!
……なんて現金な感想が頭に浮かび、余計恥ずかしくなる。
熱が集中し始めた頬を隠すように、手元に視線を戻し、ゴシゴシとニンジンを洗いながら、気を反らすように話を続ける。
「はあ……お刺し身にして食べたら、もっとおいしんだろうなあ……」
初めて焼いたマックスサーモンを食べたとき、まるで刺身用のサーモンに火を通したように程よい脂乗りのまろやかな味わいで、機会があればぜひ刺身で食したいと思ったものだ。
残念ながら、この世界では生の魚を食すという文化がない上に醤油やわさびなど一部の調味料も存在しないようなので、早い段階で諦めたが。
そのことを思い出した私は、ふと、自分の発言を振り返り、はっとする。
……しまった。
自分に前世の記憶があることは、誰も知らない。
ましてや、前世いた場所がハイラルでないことなど、知られるべきではないのに。
自分に向けられている視線がどんなものかある程度予想がついていた私は、恐るおそる彼を見上げた。
「……オサシミ?」
案の定、リーバルは不審なものを見る目で私を見下ろしている。
私は慌てて笑みを取り繕い、補足した。
「ぎょ、業界用語です!
城下町の魚屋さんが、まかないのことをそのように呼んでいて、私も食べさせてもらったことがあって!」
無理があるかと思ったが、リーバルはそれ以上詮索してこなかった。
彼は未だ手にしたままのかごを作業台のかたわらにドン!と置くと、洗い終わったニンジンを私の手から取り上げた。
「何ぼさっとしてるんだい。早くしないと日が暮れるよ」
「はっ、はい!」
どうやら手伝ってくれるつもりらしく、包丁を手に、手際よく皮をむいていく。
私の手には大きな包丁は、彼が持つとまるでおままごとのナイフのようだ。
するするとまな板の上に流れ落ちてゆく薄皮。
彼の手に収まる小さなニンジンが、なぜだかひどく羨ましいと思ってしまう。
彼に、もう一度触れられたい。
「……っ」
脳裏によぎった考えを根こそぎ洗い落とすように、ゴシゴシとニンジンの泥を落とす。
それでも、一度私のなかにこびりついてしまった想いは、桶にたまってゆく泥と違い、簡単に落とせはしなかった。
(2021.4.15)