降りしきる雨のなか。
暗雲に覆われた夜空の下、私は愕然と膝をついていた。
雨を吸い込み濡れそぼった髪から、幾筋も雫が垂れ、私の足元に横たわる彼を濡らす。
常に整えられた毛流れは乱れて汚れにまみれ、ところどころ風穴が焦げ付き、焼けただれている。
彼の腹部から流れ出る鮮血が、周りに散らばった羽を侵食し、深い紺色をどす黒く塗り替えてゆく。
翡翠のまたたきが徐々に掠れていくのを見つめ、ただ声をかけ続けることしかできない。
命の灯火が、少しずつ、少しずつ小さくなっていく。
「いや!!」
自分の大声に、意識が一気に覚醒する。
勢いよく身を起こして周囲を確認し、そこがハイラル城の自室であることを思い出し、安堵に胸をなでおろした。
呼吸が激しく乱れ、顔が汗でびっしょり濡れている。
震える手で額を拭うと、気持ちを落ち着かせるように、もう一度息を深く吐き出す。
寝室から抜け出して風呂場に駆け込むと、湯船に張ったままの水を洗面器で汲み上げ、頭から浴びた。
ネグリジェに染み込んだ水が、髪から垂れる雫が、夢のなかの光景をまざまざと思い起こさせる。
冷静さを取り戻すつもりが、かえってどろどろとした感情があふれ返り、えずいた。
何て嫌な夢だ。
コログの森でリンクが退魔の剣を手にした日、最悪の”未来”をこの目に焼き付けられた。
あくまでもあのフードの男がそう言っているだけだと何度も自分に言い聞かせるが、あれ以来、私は呪いでもかけられたように毎晩悪夢にうなされている。
夢の最後は決まって彼が……リーバルが、私の目の前で……。
あんなでたらめ、現実に起こるわけがない。
みんなあんなに鍛錬を重ねているし、ゼルダ様がシーカー族に依頼している遺物の研究だって順調だと聞く。
対策はまだまだ万全とは言い難いかもしれないけれど、先日リンクがついに退魔の騎士として剣に選ばれたんだ。
絶対に、あんな未来は訪れない……!
そう何度自分に言い聞かせようとも、脳裏に反芻されるのはあの男が去り際にささやいたあの声。
“お前の大切なものを失いたくなければ、我が元へ来い”
あの男に掴まれた際にできたあざが残る手首をさすり、目をぎゅっと閉ざす。
「もっと、強くならなくちゃ……」
私は部屋に干しておいたワンピースをまとい、いつでも顔を隠せるように念のためフードつきのトーガを肩にかけ、髪も乾かさずに部屋を飛び出した。
携えたトラヴェルソをぎゅっと握りしめ、夜の廊下を駆ける。
廊下は等間隔で壁に松明がたかれてはいるが、薄暗く、時折窓から差し込む月明かりのほうが明るい。
私の部屋の近くにある、大きなバルコニーに出た。
この辺りは警備が手薄だ。人目につくことはないだろう。
今晩は幸いにも快晴で雲一つなく、満天の星が輝くなかにぽっかりと満月が浮かんでいる。
こんな気分の日に、曇り空じゃなくて本当に良かった。
もし今日があの夢と同じ天候だったなら、この行き場のない想いをどこへ向けたらいいかわからなかっただろう。
柔らかな光を注ぐ月に密かに感謝しつつ、静かにトラヴェルソを構えた。
夢中になって吹いているうちに、淀んだ気持ちが少しずつ押し流されていくのを感じる。
どのくらいそうしていたのか、やっとトラヴェルソを口から離したとき、首筋を冷たい風がなで、くしゃみが出た。
トーガをまとっているとはいえ、まだ春に差し掛かったばかりの夜は肌寒い。
「ちゃんと髪を乾かしとくんだった……」
鼻をすすり腕をさすったとき、頭上からクスクスと笑い声がかかった。
「こんな夜更けに笛を吹くなんて、新手の魔物かと思って来てみれば……」
聞き覚えのある声に驚き、咄嗟にフードをかぶると、慌てて声の主を振り返った。
「リーバル!……まだ起きてたんですか」
「いや、今しがた目が覚めたところだよ。ちょっと喉が渇いちゃってね……」
「目覚めたついでに夜の遊覧飛行をしてたところさ」と冗談めかしながら、リーバルは地に足がつく手前で両翼をばさっと一振りすると、ふわりと降り立った。
彼が起こした風に目をすがめているあいだに、目の前に詰め寄られる。
驚いた拍子にバルコニーの欄干に背中がついた。
月の光に照らされきらめく目が、私のフードの奥を見透かすように細められる。
今は口元を隠すマフラーがない。
私はフードの端でぐいっと口元を隠しながら、顔を反らした。
腕組みをしながら私を見下ろしていたリーバルは「ふうん」とうなずくと、私の両側に手をついた。
「えっ、ななな何して……!?」
彼の突拍子のない行動に慌てふためいて顔を上げると、ニヤリと口角を歪めた彼と目が合う。
いたずらっ子のような笑みにどきりとするも、そのあと彼が取った行動に、私は抵抗するのも忘れされるがままになってしまった。
彼の手が、フードのなかに差し込まれた。
顔を横に背けたが間に合わず、少しだけフードがめくられてしまう。
あたたかい指先に横髪を退けられ、耳元があらわになる。
「……ふん」
一瞬見開いた眼を伏せると、彼は私から身を離し、となりの欄干にもたれて腕を組んだ。
いちいち目につくほどに様になる立ち振る舞いだ。
私は突き詰められなかったことにほっとしつつも、疑問が首をもたげる。
てっきりフードを外されると思っていたが、なぜ彼はそこまでしなかったんだろう。
巻きさらうだけの豪風かと思いきや、風の去り際に少しだけ草花が香るときのような、颯然とした呆気なさ。
私のテリトリーに踏み込んでくるかと思いきや、そのすぐ手前を円を描くように歩いて適度な距離を保っているだけだと気づかされる。
踏み込まれなかったことに心底安心したはずなのに、心の奥底で渦巻くこの感情は、いったい……。
「まったく……おろかだよ」
もやもやする私のかたわらで、風に身を委ねてぼんやりしているリーバルは、時折そよぐ城壁の垂れ幕に目を細めながら脈絡なくぼやき始めた。
「僕らリト族は、羽毛の色や模様は個体によって違うし、わざわざそれを指摘しあうなんて野暮なことしない。
そんなくだらない固着観念を抱くのは、君たち人間くらいだよ。
外見が無駄に近いせいか、少しの個体差くらいで過敏になるなんて、つくづく厄介な種族だねえ……」
私がフードで顔を隠していた理由を問い詰めてこないのが、なぜなのかわかった。
リーバルの言葉は憶測なうえに突拍子もないが、事情を見越しているんだ。
そうせざるを得ない事由を憂いての言葉に、私の心は鷲掴みにされたようにぎゅうっと締め付けられる。
今すぐに、彼を抱きしめたい。
けれど、一時的な感情に任せてそんなことをして、もし拒まれてしまったら。……絶対に立ち直れない。
はち切れそうな想いをどうにか押し込め、震える声で問いかける。
「……私を、奇形だとは思わないんですか?」
リーバルはちら、とこちらを見やると、目線を上向け、ため息交じりに言った。
「さあね。ゲルド族は……まあ違って見えなくもないけど、僕らからしてみれば、ハイリア人もシーカー族も大差ない。
たかが部位がちょっと違うくらいでどうかって尋ねられても、答えに困るよ」
「そっか……案外そんなものなんですね……」
もっと物珍しげな反応をされると身構えていただけに拍子抜けしたが、どこかほっとしている自分がいた。
彼からしてみれば元々の意識を述べただけであって、私を気遣ってそういったわけではないのかもしれない。
けれど、考えようによっては、あるがままを受け入れられたようで。
普段何かにつけてののしってくる彼が言った言葉かと思うと、ほかの誰かに同じことを言われるよりもずっと嬉しかった。
彼がそうしているように私も欄干にもたれかかり、星を見上げる。
長い沈黙が降り、話が途切れたものだと思った。
しかし、しばらく夜空をながめていると、リーバルが唐突に話を再開した。
「……じゃあ聞くけどさ。
アイは、君たちと姿かたちが完全に異なるうえに個体差のある僕らリトを見て、そんな風に思ってるのかい?」
「……」
彼の問いに対する言葉がすぐ出てこなかった。
“そんな風に”とはおそらく、個体ごとに特徴の異なるリト族を奇形だと思うか、と言いたいのだろう。
奇形だとは思わないけれど、初めて見たとき異形だとは思いました、なんて口が裂けても言えない……。
「き、奇形とは、思ってません……」
ずいっと鼻先にくちばしを近づけられ、内心ドキッとした私に反し、彼の顔は怒っている。
「何だよそれ。含みのある言い方だな」
普段含みのある言い方しかしない人にそう言われると何だか複雑だ。
凄みのある顔に、ごめんなさい、と身を竦めると、彼はすっと上体を正した。
両手を上げて緩慢に首を振りながら、呆れるようにため息までつかれてしまう。
「シャクだねえ……これだから人間は。
“奇形だなんてとんでもない!リーバル様は美形ぞろいのリト族のなかでも一番見目麗しいです”くらいすぐ言えなきゃ」
その茶化し方は少々ずれている気がするが、彼なりに冗談のつもりなのだろう。半分冗談に聞こえないが。
身振り手振りを交えながら芝居がかったようにそう言う”リーバル様”に盛大なため息を漏らす。
自画自賛や奢りが品格を下げるとは考えないのだろうかこの人は。
けれど、冗談とも本心とも取れるこのつかみどころのない言動に、こんな気分の今だからこそ、余計に救われる。
「……ま、君が何を気にしてようが、僕には関係ないけど。
どんな奇異の目で見られようと、君は君、だろ?」
その言葉に、私は弾けるように顔を上げ、彼を見つめた。
リーバルは横目に私をじっと見下ろしていたが、ふいっと顔を反らした。
四つに結われた三つ編みが、ふわふわと風に揺れている。
だんだん緩む口元を隠すように手で覆う。
「……ありがとう」
心からの感謝の念をこぼした私に、リーバルは丸くした目でぱっと振り返ると、思いきり顔をしかめた。
「……はあ?礼を言われるようなこと言ったつもりないんだけど。
外見はともかく、中身は本当に変わってるよねえ、君」
「そっちこそ」
むすっとしてそう返すと、照れ隠しにさっさとトラヴェルソを構えた。
なおも言い返してくるリーバルにひっそりと笑みをこぼしながら、ゼルダと出会ったときに吹いていた曲を奏でる。
優しいその音色に、彼の小さな心遣いに、悪夢に侵されてかき乱されていた心が、少しずつ解きほぐされてゆく。
微かな風が時折頬をなでる穏やかな夜の空に、静かな笛の音が響く。
リーバルは目を閉じて音色に耳を傾けながら、それ以上何を言うでもなく、私が吹くのをやめるまで、いつまでもそばにいてくれた。
(2021.4.13)