宿を出たのが昼過ぎだったこともあるが、あたふたしているうちにすっかり日が暮れて、あたりは夕闇が侵食し始めていた。
リトの村に設えられている灯篭も、いつの間にかぼんやりとあたりを照らしている。
景色が闇に溶けているおかげで、高所であることが少しだけ気にならなくなった。
それでも崖側をのぞき込むなんてことはさすがにできないが。
リトの青年改めリーバルは、ーー決して快くとはいえないがーー行く当てのない私を、ぶつくさ文句を言いつつもしばらく泊めてくれることになった。
「まったく……僕に助けられたお礼を言いに来るどころか、また助けられる羽目になった挙句、行く宛てもないのに世話になってた馬宿を去るって……君はどこまで向こう見ずなんだい?」
「おっしゃる通りです……」
そんなお説教じみたことを先ほどから延々と言われているが、あまり嫌な気持ちはしない。
口は悪いが、案外親切なのかもしれないと、その心根の優しさに二度も救われた身としてそう感じている。
木組みの階段をゆったりと降りるリーバルのあとについて行きながら、ぼんやりとそんなことを思い浮かべていたとき。
突然リーバルが立ち止まってこちらをじろっとした目で振り返ってきたので、私も合わせて立ち止まり、身構える。
「ところで」
闇夜でより色濃くなった紺色の羽毛は、濡れ羽のカラスのようで、そこに埋め込まれた翡翠の目は、薄闇のなかでも煌々と眼光を放っている。
改まって何を言おうとしているのかどぎまぎしながら待ち構えていると、突拍子もなくこんなことを言ってきた。
「”君”と言い続けるのにもそろそろ疲れてきた。
僕の名前だけ知られているというのもなんだかシャクだ」
また何かお小言を言われると勝手に思い込んでいた私は、遠回しに「名前は?」と聞かれたのだと気づくのに時間がかかり、そのせいで彼の眉間にしわが寄っていくのを見て慌てて応えた。
「あっ、……名前、ですよね。
申し遅れました。私はアイと申します」
目を伏せ、小声で「アイ」と私の名前を復唱するリーバル。
ささやくようなその声に不覚にもドキッとしてしまう。
「ふーん……。不思議な響きだ」
「そうでしょうか」
自分の名前がめずらしいものかどうかなどわからないため、要領を得ない返しをしてしまった。
リーバルは「調子が狂うなあ」と言いつつも、私の記憶に関する事情については先ほど散々説明したばかりなので、それ以上は何も言ってこなかった。
そうこう話しているうちに、調理場らしきところに到着していた。
「さて……いい時間だし僕は何か食べるけど、君は?」
リーバルは、調理場のかごを漁り、にんじんやじゃがいもを吟味しながら、こちらを一瞥した。
ここの調理場にストックされているものは自由に使って良いとのことだ。
「それじゃあ、あの、もし良かったら何か作ってもいいですか?
助けてもらったお礼がしたいです」
「……じゃ、はい、これ持って」
じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、ラディッシュの入ったかごを手渡される。
「これは?」
「マックスサーモンのシチュー。作れるかい?」
「は、はいっ」
シチューは私の得意料理だ。
宿でも宿泊客にふるまうと特に喜ばれた。
「そうと決まれば、僕はマックスサーモンをとってくるよ」
私がかごを受け取ると、リーバルは調理場から出ていこうとして、ふと足を止める。
「あとさ、そのかしこまった話し方もやめない?
見たところ、歳もそう変わらなそうだし」
「あ……そうだね」
リーバルは少し笑みを浮かべ、「下ごしらえ、頼んだよ」と片手を挙げると今度こそ調理場を後にした。
リーバルが不在のあいだに、私は下ごしらえだ。
(2021.2.8)