失われた記憶

4. ルチル湖・サトリ山にて

厄災討伐後、世界は平穏を取り戻しつつあるというのに、リーバルは欠かさず弓の鍛錬に励んでいる。
一日一回は弓を触らないと落ち着かないのだろう。

けれど、私はこうして単調に日々が過ぎていくのが我慢ならず。
早朝から飛行訓練場に行っていたリーバルがお昼どきになって戻ってきたタイミングで、密かに用意していた弁当の包みを彼の前に示した。

「じゃじゃん!今日のお昼ごはんは、お弁当です!
朝からこしらえたんですよ」

嬉々として言う私に、彼はあからさまに不機嫌になりながら、お弁当の包みを受け取る。

「はあ?
今日の昼食はマックスサーモンの塩焼きだって言ってただろ」

「ちゃんと入ってますよ。
さ、日が暮れないうちに行きましょう!」

「行くって……どこへだい?」

「ピクニックです!」

「ピクニックって……なんだいそれは?」と問いを重ねるリーバルの背中をまあまあ、と押しながら村の外へ促す。

「お弁当ってことは、着くころには冷めきってるよね。
……できたてが食べたかったんだけど、僕」

出発までは渋々とだったが、こうして私を背中に乗せて空を舞うのはさほど嫌いなわけではないらしく、ハイラルの中空を横断しているうちにリーバルは上機嫌になっていた。

「その、ピクニック……だっけ?
どこで弁当を食べるのさ?」

「そうですねえ……ルチル湖なんてどうでしょう?」

「ルチル湖か。悪くない」

リーバルはククジャ谷に差し掛かったところで旋回し、谷に沿って南下しはじめた。

自分の足で立つ高所は相変わらず足がすくむほど怖いが、いつしかリーバルの背中に乗って空を飛んでいるあいだだけは恐怖心を抱かなくなっていた。
私が落ちないよう彼が自分の体と私の体を縄できつく縛ってくれていることや、彼の飛行が安定しているおかげももちろんあるだろう。
けれどそれだけではなく、リーバルと過ごすうちに不思議と彼といれば大丈夫だと思えている自分がいるのだ。

厄災復活前、飛行訓練場のそばで雪に埋もれていたところを彼に助けられた。
目覚めたとき、あと少し遅ければ凍死していたと聞かされた際には肝が冷えた。

私の記憶が正しければ、彼とはもっと以前にリトの村の近くで上空から落ちているところを助けられたはずだ。
けれど、飛行訓練場で再会した彼は、私に関する一切の記憶を失っていた。

そう聞かされたとき、それまでのことはすべて夢だったのかと思ったが、彼とやりとりをしているうちに、彼が記憶の片鱗に触れる瞬間があり、私の記憶違いではないことに気づく。
つまり、記憶を失った彼とまた初対面からやり直し、私だけが以前の記憶を保持したままということなのだろう。

もしかすると、これまでにも度々記憶をリセットされてきたのではないだろうか。
今回は彼が私のことを忘れ、私だけが彼のことを覚えているが、反対に私が彼のことを忘れ、彼だけが私のことを覚えていた時間軸があったのかもしれない。
どうして、このようなことが起こってしまうのだろう。

彼と再会してすぐはリーバルが私のことをまったく覚えていないことに酷くショックを受けたが、彼はすっかり記憶を失ってはいるものの、私を無理に遠ざけるようなことはせず、何だかんだで側に置いてくれている。
本来の彼は「自由」という言葉が相応しいほどに束縛を嫌い、人と極力かかわらない性格であるはずなのだが……不思議でしょうがない。

アイ!目的地に着いたぞ」

リーバルの声に、はっと我に返る。

彼との再会を思い起こしていたため、ついつい黙り込んでしまっていた。
肩越しに振り返る彼の顔が少し怪訝そうに歪められている。

「あっ……ごめんなさい!
じゃあ、どこか敷き布を広げられそうな木陰に降りましょうか」

リーバルは「はいはい」と面倒くさそうに、だが口元には笑みを浮かべながら、降下をはじめた。
急降下が怖いという私に配慮し、ゆっくりと地面が近づいてくる。

地面に降り立つ瞬間のふわりと巻き起こる風に少しだけ混じるリーバルの香りが好きだ。

彼が私たちを縛る縄をほどくと、私の体は彼の背中をするりと伝い、地面に着地する。

背中の上にいるときにはあまり意識しないが、地に足がついているときは身長差を感じさせる。
人間の私からすれば十分上背があるように見えるのに、どうやらリト族のなかで彼は小柄なようだ。
本人も周りもそのことには一切触れないため、私も余計なことは言わないが。

「で?どこに敷き布を敷くんだ?」

リーバルは腰に手をあてながらあたりをきょろきょろと見まわしている。

私もとなりに立って周囲を見渡し、湖のほとりを指さした。

「あそこなんてどうですか?
ちょうど木陰になってるし、岩場が低い段差になって」

「それじゃ、お先に!」

「腰かけられそうだ」と言い終える前に、リーバルは指し示したほうにひとっ飛びで行ってしまった。
リーバルの手助けなくしてあそこに行くには、湖の周りを周回するか浅瀬を渡るしかない。

「リーバル!ずるいですよそれは」

「訓練でお腹を空かせて帰ってきた僕に待ったをかけた挙句、こんなところまで連れてこさせられたんだ。
このくらいの仕返しは覚悟の上だよね?」

対岸から嘲笑とともに嫌味を投げつけられ、呆れ混じりにため息をつく。
ここからだと周回するには少し距離があるなあ。

面倒だと思いながらも、私は靴と靴下を脱ぐと、ズボンのすそを捲り上げ、湖に足を突っ込んだ。
昼間とはいえ、やや高地にあるためか少し水が冷たい。

リーバルは自分から吹っ掛けてきたくせに、私がズボンを捲った途端なぜか顔を背けてしまった。
種族は違えど、男と女であることを少しは意識しているらしい。
彼の様子に、私まで気恥ずかしくなるが、今は足の裏に神経を集中させないと、ところどころに群生している苔に足を取られかねない。

「わっ、あっ!きゃあっ!!」

案の定、私は尻もちをついてしまった。
結構気をつけていたのにこのざまだ。

アイ
……おいおい、大丈夫かい?」

私が転んだ拍子にリーバルは声を上げたが、すぐに平静を装い、呆れたように笑いながら両手を広げた。
水の中に手をつきながら、手くらい貸してくれてもいいのにと、呑気にこちらの様子をおもしろがって見ているだけの彼に腹を立てる。

しかし、それよりも気がかりなのは転んだ拍子に下半身がずぶぬれになってしまったことだ。
下着まで水がしみ込んでいることは容易に想像できる。
こうなることは予想していなかったため、替えの服を用意していない。

幸い靴と靴下は左手で持っていたため無事だが、尻もちをついた際に受け身を取った右手は少し捻ってしまったらしく、ズキズキと痛んでいる。

「ほら、手を貸しな」

ようやく岸にたどり着いた私の右手首をリーバルがつかむ。

「いたっ……」

彼は私の声に驚いてぱっと手を離すと、今度は優しく手を包み、深くため息をついた。

「まったく……そそっかしいにも程があるよ。
僕が側から離れただけで、ずぶぬれになっただけでなく、怪我までするなんてね」

「あなたが私を置いて勝手に行ってしまうからこうなったんじゃないですか……くしゅん!」

くしゃみをし、身震いする。
ひんやりと冷たい水に浸かってしまったため、体が冷えてしまったようだ。

「やれやれ……」

彼は弁当の包みを岩場に置くと、手近な木の枝を拾い集め、荷物のなかから火打ち石を取り出し、焚き火を起こしてくれた。
さらに薬を取り出すと、敷き布に使うはずだった布を広げ、その二つをこちらを見ずにずいっと差し出してきた。

「着替えがないんだろ?
とりあえずこれを巻きなよ」

普段は意地悪なくせして、こんな一面もあるのか。
リーバルから布と薬を受け取りながら、私は微かに笑みを浮かべる。

「ありがとう……」

「おかげですっかり腹ぺこだよ。
僕は先に食べてるからね。
君のぶんは気が向いたら取っといてあげるよ」

「あ!全部食べちゃだめですよ!」

木の陰から顔を出しながら、リーバルに声をかけるが、すでに弁当を広げてマックスサーモンにかじりついている彼には届いていなさそうだ。
普段のクールな装いはどこへやら、無邪気に頬張る彼に苦笑を浮かべながらも、案外ああいう彼もいいかもなと思う。

リーバルは決して覗き見るような真似はしないだろうが、近くにいると思うと、ズボンと下着を脱ぐことにためらいを感じる。
けれど、このままだと風邪を引いてしまいかねない。

意を決して、一息に脱ぐと、渡された布をさっと腰に巻いた。

着替え終わってリーバルの元へ戻ると、すでに食事を済ませた彼は、持参した酒をラッパ飲みしてるところだった。
よほどお腹をすかせていたのだろう。彼も何だかんだで楽しそうにしてくれてはいるが、少し申し訳ない気持ちになる。

弁当箱のなかにはちゃんと私のぶんが残されており、口ではああ言っていた割に律義だなあと笑みが浮かぶ。

「濡れた服を焚き火にあてておくといい。
帰るまでに少しは乾くだろ」

酒が回っているせいか、彼の声は少し艶っぽい。
片膝を立てて座り、立てた膝に肘をかけるようにしながら酒瓶をかたむけて持つ姿は無造作だが、リーバルがそうしていると様になって見える。
心臓をわしづかみにされたような気分だ。

この二人きりの空間で意識しすぎてはあとが持たない。
沸き起こる感情を振り払い、彼の厚意に甘えて焚き火に近づいたとき、私は肝心なことを思い出した。

「あの……リーバル」

「何だい?」

彼は酒瓶をあおりながら、視線を寄越した。

細められた切れ長の目が、私を真っすぐに射抜く。
昼下がりの陽光に照らされた翡翠がキラキラと輝き、透き通ったグリーンをより淡い色合いに見せている。

酒気を帯びたことにより艶美さが増し、抑え込んでいた私の鼓動は再びドキドキと加速し始める。

「その、せっかくの厚意を無碍にするようなことを申し上げるのは私としても心苦しいのですが……」

緊張しきって言いあぐねていると、彼は苛立った様子で立ち上がった。

「もったいぶってないで結論を言いなよ。
いったい何だって言うのさ?」

こちらに来ようとするのを手で制止しながら、私は固く目を閉じ、大きな声で告げた。

「しっ、下着があるので!」

「は?」

彼は素っ頓狂な声を上げた。

恐るおそる彼の顔を見上げる。

どうやら意味が伝わっていないらしく、眉間にしわを寄せたまま私の様子をうかがっている。
私はもう一度、今度ははっきりと意図を伝える。

「下着があるので、できれば焚き火に背を向けてくれませんか」

「下着って何さ」

「……え?」

今度は私が驚く番だった。

え、下着で合ってるよね?
私、言い間違った?
それとも、彼の聞き間違い……?

彼の反応についてあれこれ考察しているうちに、彼の姿に自然と目が行き、ああ、と納得した。
リト族の文化を完全に失念していた。彼らは男も女も下半身には何も身に着けない。
羽毛が裾の短いズボンのように膨らんでいるので、そう思い至るまでに時間がかかってしまった。

「下着と言うのは、その……人間が下半身につける服の一つです」

下着がどういうものであるのか説明したが、体の造りや文化の違いがあるとはいえ、コミュニケーションが取れるレベルの知能を有していることは考慮すべきだったかもしれない。
彼の顔がみるみる真っ赤に染まっていったのは、決して酒が頭に回ったせいではないことくらい瞬時に理解できた。

「ちょっ……君には恥じらいってものがないのかい!?」

「だって!じゃあどう説明すれば良かったっていうんですか!!」

リーバルはかっかしながら荒々しく湖のほとりに向かい、どしんと砂利の上に胡坐をかいてこちらに背を向けてしまった。
肩越しに私をひとにらみし、プイッと顔を反らす。

「子どもですかあなたは……」

「どっちがだよ!」

彼はぶっきらぼうにそう言うと、すっかり空になった酒瓶を返して中身がないことを悟ると、砂利の上に瓶を放って頬杖をついた。
完全にへそを曲げてしまったらしい。

せっかくリーバルと初めてピクニックに来られたのに、これじゃ台無しだ。
私は彼の背中に向かって「ごめんなさい」とつぶやいた。

小さな声で言ったが、彼にはちゃんと届いたらしく、ため息混じりに「もういいよ」と返してくれた。

近くに転がっていた木の枝を焚き火の近くに差し、水を含んだズボンと下着をしっかり絞ってからかける。

迷ったが、弁当箱を片手に立ち上がると、そっと彼のとなりに腰を下ろす。
湖に手近な石を投げて水切りをしていたリーバルは、一度こちらに目を向けると、手にした石を遠くに投げた。
石は湖の深いところにドボン、と沈んでいった。

「リーバル。
無理を言って連れてきてもらったのに、私、迷惑かけてばかりで……本当にごめんなさい。
せっかくだし、残りは一緒に食べましょう?」

「でも……君も腹がすいてるんじゃないの?」

私はくすりと微笑むと、彼のくちばしにおにぎりを押し付けた。

「あなたのためにこしらえたんですから。
それに、せっかくなら一緒に食べたいです」

そう言うと、彼は顔をしかめつつ、まだ私の手のなかにあるおにぎりをくちばしでかじった。

「美味しい」

リーバルは咀嚼そしゃくしながら、くちばしに残った米粒を指で取り、めずらしく優しい笑みを浮かべた。
それにまた私の心臓が跳ねる。

どうしよう。
私……彼のことが好きだ。

焚き火の火が小さくなるころには、陽が傾き始めていた。

私の服は絞った甲斐あってか、焚き火と山の風を数時間受けているうちにすっかり乾いており、帰り支度をするときには着替えることができた。
布を巻いていたとはいえ、ノーパンで空を駆ることにならずに済んで良かった。

「村に帰る前に、寄りたいところがあるんだけど」

支度を済ませた私に、彼はそう言って頭上のサトリ山を示した。
麓のルチル湖にはときどき来ていたが、ルチル湖から登るには苔むした岩場……というよりもはや切り立った崖を行くしかないため、サトリ山には一度も登ったことがない。
それに、登ったとしても高度が上がるにつれ恐怖心も増すので、山頂まで登れる自信もない。

そうこぼすと、彼は至極呆れたようにこう言った。

「こんな険しい山道、僕だって歩きたくないよ。
飛んで行くんだ」

言うが早いか、彼は私を背中に引き寄せて乗せ、縄で縛りもせずに飛び上がった。

急な上昇に悲鳴を上げるが、宙に浮いていたのはほんの短い間だけで、一瞬にして頂上に着いていた。

「どうだい、初のサトリ山登山は?」

「これを登山と呼んでいいのやら……」

冗談めかして言う彼の背中からそろりと降り立った私は、言いかけた言葉を飲み込んだ。
ここが高台であることを忘れ、満開に咲き乱れる桜の花に釘付けになる。

夕陽に照らされた花は薄桃色と橙の入り交じったあたたかな色合いに染まり、はらはらと小さな花弁を散らしている。

「綺麗……」

「ルチル湖に来たいって言うからさ。ついでにこの桜を見せてあげようと思って。
もう少し早い時間に来れば良かったかな」

となりに立ちそうぼやく彼に私は左右に首を振った。

「……いいえ。今が一番素敵です。
ありがとう、リーバル」

そう言って微笑みかけると、彼はやけに真摯な顔つきになり、私をぐいっと引き寄せた。
彼の両翼が、夕時で冷え込んだ外気にさらされ冷たくなっていた私の肌をじんわりと溶かしていく。

「リーバル……!?」

「黙って」

驚きのあまり彼を押し返そうとするが、彼はより抱き締める腕に力を込めた。
彼のくちばしが私の耳元に近づけられる。

斜陽による逆光で翳りのある彼の目が、薄暗闇のなか、私の目を射抜く。
ごくりと固唾を飲んで見つめ返すと、そのくちばしがおもむろに開かれた。

アイ……君が好きだ」

そうささやき、彼のくちばしが私の唇に触れる。

桜の花弁が一片ひとひら、私の額に舞い落ちた。

終わり

(2021.3.20)

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