「さむ……」
床のきしむ音とともに聞こえた声に、まどろんでいた意識を取り戻す。
そうか……昨日からこの家には厄介な同居人が増えたんだった。
目を開けて声をかけようかと思ったが、アイは僕がまだ眠っていると思っているらしく、忍び足でこちらに向かってくるのが少し気になり、何となくそら寝を続けることにした。
僕を起こそうとしてくれているのか……?
そう思ったが、アイは僕のとなりでしゃがんだきり、一向に話しかけてくる様子はない。
一体どうしたというんだ?
何をしているのか気になって、薄目を開けてちらりとアイの様子をうかがう。
アイは特に何をするでもなく、膝を抱えて腕に頭をもたれながら僕の顔をじっと見つめている。
僕が起きるまでそうしているつもりなのか……!?
人から注目を浴びることにはなれているが、こうして至近距離でずっと見つめ続けられるのは、さすがの僕も落ち着かない。
「……男の寝込みにつけ込むなんていい度胸だね、君」
「わっ!!」
眠っていると思っていた相手に声をかけられるとは思っていなかったらしく、アイは体制を崩して後ろに倒れこんだ。
「同じことをされても文句は言わせないよ?」
僕は片目を開けて流し目でアイを見やり、口角を上げた。
起き抜けにこんないたずらをされたんだ。
……おかえしに何かしてやろうか。
脳裏にある考えが浮かび、ひそかに笑みを浮かべ、体を起こした。
「それとも……」
倒れたままのアイに覆いかぶさるようににじり寄り、その小さなあごをくい、と持ち上げる。
羽先で触れたあごが少し震えている。
かなり動揺しているようで、寝起きで少し血色の悪い頬が赤く染まる。
「僕にキスでもしようとした、とか……」
“キス”という単語にひどく狼狽した様子を見せ、アイは小刻みにかぶりを振った。
その様子があまりにコミカルで、今にも笑いそうになるのを必死に押し殺す。
「違っ……えっと、お、起こそうとしただけだよ!」
咄嗟についたにしてはちょっと無理がある弁明に、ついにこらえきれず噴き出した。
「……ぷっ」
まったく、素直なのか素直じゃないのか、つくづくおもしろい反応をしてくれるね。
腹を抱えて笑っている僕に、アイの顔がどんどん険しくなっていく。
どうにか笑いをおさめ、目尻にたまった涙をぬぐう。
「はあー……君ってホントにからかい甲斐があるよね!
リトが人間に手を出すなんてあるわけないじゃないか」
僕としては何の気なしに口をついて出た言葉だったが、ちらりと見たアイの表情にはっと目を見張る。
アイは、ひどく傷ついたような顔をしていた。
だが、それも一瞬のことで、すぐに困ったような笑顔に変わった。
「そう……だよね。
ああ、もう!びっくりしたあ……。いきなりあんなことするんだもん」
彼女はそう言って笑うが、先ほどの表情が気にかかり、何度も脳裏によぎる。
……そうだ、今日は飛行訓練場にアイを連れていくんだっけ。
無理やり今日のスケジュールに頭を切り替え、アイに背を向け棚に向かい冗談交じりに続ける。
「君だって僕の寝顔に見とれてただろ。
あんまりじっと見つめられるから顔に穴が開くかと思ったよ」
棚に置かれた髪留めを手にし、襟足を少しずつ束ねながら三つ編みを作っていく。
毎日のことなのでなれてはいるが、結びっぱなしにできたらどんなに楽だろうと思う。
「い、いつから起きてたの……?」
消え入るような声で言うアイに、肩越しに答える。
「君が僕のとなりに来たときにはもう起きてたさ。
ずっと薄目で見てたけど、なかなか寝たふりに気づかなくて笑いをこらえるのに必死だったよ」
四本目の三つ編みに髪留めを通し終え、アイを振り返る。
彼女はなおも気恥ずかしげにしながら、僕から視線を反らした。
……ちょっとからかいすぎたかな。
「さて、冗談はここまでにして、さっさと身支度しなよ。
調理場に大きな桶があるから、それに水を張って顔でも洗ってくれば」
僕はお詫びの印に努めて物柔らかに声をかけ、タオルを差し出した。
アイはそれを聞き取れるかどうかくらいの小さな声で「ありがとう」と受け取ると、調理場に向かい早足に去って行った。
相手は人間とはいえ、ああやってうぶな反応をされると、さすがの僕でも気持ちが揺れそうだ。
「……あの子が帰ってくる前に、弓の準備でもしておこうか」
(2021.2.15)