彼女の高所恐怖症はリトの村に着いてからも相変わらずで、らせん状の階段の隙間を覗き見ては目を反らし、景色を見ては目を反らしの連続。
いちいち大げさなに怖がるもんだから、こちらも笑いをこらえるのに必死だ。
見ているぶんには飽きないからいいけれど。
ただ、僕の自宅は崖からせり出したやぐらのような形をしているため、そこに入るのにもためらいを見せられたときはさすがにイライラしたが。
自宅についてからもなお怖がる彼女を座らせ、落ち着いたところでこれまでのいきさつを聞き出した。
どうやら彼女は記憶喪失らしい。
ひと月前、森で意識を失っているところを僕が見つけ馬宿まで運んだあと、3日ほどで目覚めたらしいが、目覚める前の記憶はせいぜい自分の名前くらいとのこと。
名前を聞くタイミングはいくらでもあったが、彼女が名乗ろうとしないので、僕からは何となく聞けずにいる。
村の中を案内しているうちにあたりが暗くなってきた。
陽が沈んだことであたりが陰に染まり、景色も不鮮明になってきたせいか、彼女もここが高台であることをさほど気にしなくなってきた。
とはいえ余計なことを言えばまた意識し始めるだろう。
何となく話を続けないと落ち着かず、彼女を連れて階段を下りながら、肩越しに声をかける。
「まったく……僕に助けられたお礼を言いに来るどころか、また助けられる羽目になった挙句、行く宛てもないのに世話になってた馬宿を去るなんてさ。君はどこまで向こう見ずなんだい?」
「おっしゃる通りです……」
本当は名前を尋ねたかったが、そのたった一言がどうにも紡ぎだせず、もどかしさからまた心にもないことを口にしてしまった。
だが、彼女は僕の言葉に傷ついた様子はなく、はにかんだように笑っている。
悟られないように深く息を吸うと、立ち止まり振り返った。
「ところで」
一呼吸置き、彼女の目を見据える。
一刻ごとに闇が深まる夕闇に飲まれ、彼女の瞳はより色濃く見える。
その不思議な輝きについ見とれている自分に気づき、慌てて視線を反らす。
「”君”と言い続けるのにもそろそろ疲れてきた。
僕の名前だけ知られているというのもなんだかシャクだ」
やっとの思いで紡いだ言葉はやっぱりぶっきらぼうになってしまったが、言いたいことは伝えられたはずだ。
彼女もうっかりしていたようで、目を丸くすると、おずおずと答えてくれた。
「あっ、……名前、ですよね。
申し遅れました。私はアイと申します」
「アイ……」
なじみのない名前だ。
彼女の容姿と言い、遠方から流れ着いたのだろうか。
「ふーん……。不思議な響きだな」
「そうでしょうか?」
「調子が狂うなあ」
そうだ、彼女には記憶がないんだった。
ハイリア人の知人は数えるほどしかいない僕だが、それでもやはりハイラルではあまり聞かない名前のように思える。
会話しながら歩いているうちに、目的の調理場に到着した。
そろそろ夕時だ。彼女も腹がすいてきたころだろう。
「さて……いい時間だし僕は何か食べるけど、君は?」
調理場の隅に置かれた野菜のストックを漁り、にんじんやじゃがいもを吟味しながら、彼女に問いかける。
「それじゃあ、あの、もし良かったら何か作ってもいいですか?
助けていただいたお礼がしたいです」
高いところが苦手なのに、わざわざ僕のところまでやってきて、お礼に手料理をふるまおうって?……健気なことだ。
「……じゃ、はい、これ持って」
ストックから取り出した野菜を小さなかごに入れ、彼女に手渡すと、不思議そうに見上げてくる。
「これは?」
彼女の横をすり抜けながら、僕は自分の好物を告げた。
「マックスサーモンのシチュー。作れるかい?」
「は、はいっ」
彼女は顔を輝かせながらうなずいた。
「そうと決まれば、僕はマックスサーモンをとってくるよ」
調理場から出ていこうとして、ふと足を止める。
もう一つ、彼女に言っておかなくては。
「あとさ、そのかしこまった話し方もやめない?
見たところ、歳もそう変わらなそうだし」
「あ……そうだね」
僕が言ったことがそんなに嬉しかったのか、彼女は顔をほころばせた。
その様子に僕も思わず笑みをこぼしてしまったが、大丈夫、この暗闇なら彼女には見られずにすんだはずだ。
片手を挙げながら「下ごしらえ頼んだよ」と告げ、階段を下りていく。
さて、マックスサーモンをとりに行かなくては。
夜のヘブラは冷え込む。
池の水はきっと冷たいだろうが、今晩はシチューだ。
少しばかりの寒さなどどうってことない。
(2021.2.8)