先日、二の丸でアイに弓の扱いを教えていたときのことだ。
アイは、僕の目の前で突然糸が切れた人形のように倒れた。
あまりに唐突のことで頭が追い付かず呆然としていたが、すぐに気を持ち直しアイに呼びかけた。
「アイ、アイ!!」
頬を軽くたたくが、意識が戻る気配がない。すぐさまアイを背中におぶると、縄で僕と彼女の体を縛り、急いで彼女の部屋に飛んで向かった。
彼女に弓を引かせ始めてからまだそんなに時間は立っていないし、無理な動きをさせていたわけでもない。
疲れた様子もなく、コンディションも悪くなかったはずだ。
それなのに、なぜ倒れた……?
彼女をベッドに寝かせると、姫を探して城内を飛び回った。
あれから彼女は昏々と眠ったままだったが、2日の夜を迎えたころ、ようやく目を覚ました。
「アイ!」
うっすらと開かれたまぶたが再び落ちることのないよう強く呼びかけながら顔をのぞき込む。
焦点を合わそうとちらつく目を必死にこちらに向けてくる。
「リーバル……」
少しかすれた声で名を呼ばれ、安堵のため息をつき額を手で押さえる。
彼女が一度は記憶を失ったことを案じ、念のため記憶のすり合わせをしておくことにした。
「僕と弓の訓練をしたことは覚えてる?」
アイは「うん」とうなずいた。
「リーバルのおかげで、ようやくまともに矢を当てられるようになって……それで……」
「あのとき、君はいきなり倒れたんだ。
倒れる直前まで元気そうだったから、あまりに突然のことでさすがの僕も驚いたよ」
「そうだったんだ……」
アイが無事に目を覚ましたことに心底ほっとしているはずなのに、なぜか僕の脳内は苛立ちが占めていた。
「折悪しく、あの直後に敵襲を受けるし、おかげで姫と交代で君の介抱をしながら敵と戦う羽目になった。
君は何日も目覚めないし、どれだけ大変だったかわかるかい!」
勢いのままについて出た言葉は、言い始めると止まらなくなり、だんだんと語気が粗くなっていった。
アイに腹が立っているわけではない。
彼女を守ると決めた矢先のできごとで、成す術もなく意識の回復を祈ることしかできなかった自分が憎いのだ。
だが、僕の心情など彼女が知る由もなく。
歯に衣着せぬ物言いで、彼女を容赦なく傷つけてしまった。
「……ごめんなさい……」
アイは、つぶやくような声で謝罪を述べると、深くうつむいた。
勢いに任せて言っておきながら、今頃後悔の念が押し寄せる。
わけもわからないまま突然倒れ、挙句責められては、たまったもんじゃないだろう。
どうしようもないことに腹を立てるなんて、どうかしていた。
「アイ……」
目から大粒の涙を流し枕に顔を押し付けるアイの姿に、僕は息を飲んだ。
枕からくぐもった嗚咽が聞こえる。
僕の手のひらにすっぽりと収まる小さな頭を撫でようと手を伸ばしかけるが、断念する。
「……泣くなよ」
こっちまでつらくなるだろ。
「言い過ぎたよ。……ごめん」
そう声をかけるのがせいいっぱいだった。
努めて優しく声をかけたつもりだが、アイは駄々をこねる子どものようにただ首をふるふる振った。
「首を振るだけじゃ何もわからないだろ。
何とか言いなよ」
「……ごめんなさい……!」
再び弱々しく謝罪され、しびれを切らした僕は頭を掻きむしりながら「ああもう!」と悪態をついた。
アイの腕を強引につかんで引き、自分の胸に閉じ込める。
「ちょっ……リーバル!?何して……」
「……心配したよ。もう目覚めないんじゃないかって」
そう言って、僕はいっそう腕の力を強めた。
アイはそれに応えるように、腕をそっと僕の背中に回してきた。
リトの羽毛とは違い、体毛が薄く、やわらかでか細い体。
少しでも力を加えれば折れてしまいそうなほどに脆く見える。
胸当て越しでもわかるほどアイの心音は早く、この状況に緊張しているのが伝わってくる。
それが僕にも伝染して、だんだんと鼓動が早くなっていく。
僕はアイを抱きしめたまま、頭をそっとなでた。
アイの体がびくりと跳ねたが、されるがままということは嫌がってはいないようで心中ほっとする。
彼女を見るたびに込み上げるこの気持ち。
初めて抱きしめたはずなのに、妙な安心感を感じるのはなぜだろう。
やはり、僕は、アイのことが……。
どのくらいそうしていたのか、アイが僕の胸をそっと押してきたので放した。
アイは頬に伝った涙を拭い、僕の目を見つめてきた。僕もその目をじっと見返す。
「……リーバル、聞いて。
あなたに話しておかなくちゃならないことがあるの。
……私が、何者なのか」
僕は目を見張った。
「まさか……記憶が戻ったのかい?」
アイはその言葉にうーんと首をひねると、言葉を選ぶように話し始めた。
「半分、ってところかな……。
はっきりとは思い出せないんだけど、眠っている間にわかったことがあるの」
「ふむ……一体、どういうことなのか、説明してくれる?」
僕はアイのベッドに腰を下ろすと、腕組みをして目を細めた。
アイの話によると、彼女が眠っているあいだ、意識のなかに”女神”を名乗る人物が現れた。
そして女神は、彼女がこのハイラルの住人ではないこと、元いた世界とこちらの世界をこれまでにも何度か行き来しており、そのたびにアイや僕ら……こ世界の住人の記憶を抹消していたのだという。
この話が現実だとしたら、今回アイが倒れたのは彼女の体調が悪かったからではなく、女神が彼女と意識をつなごうとしたことが原因ってところか……。
「その女神とやらの話が本当だとしたら、僕らはリセットされる前の世界ですでに出会っていた、ということだね」
「そうみたい。信じられないかもしれないけど……。
でも、私は本当にそうなんじゃないかって、根拠はないけど、確信してる」
そう言うアイの表情は、どことなく沈んで見える。
僕は腕を組みなおすと、目を閉ざし、じっと口をつぐんだ。
ほかに何か隠していることがあるんじゃないか?
説明されたことだけでこんな顔をするとはとても思えなかった。
だが、彼女から話そうとしないということは、僕が聞き出したところではぐらかされるだけだろう。
今は彼女の話がすべてだと、そう信じることにした。
それに、一つだけ、僕のなかで確信していたことが一致していた。
ベッドから立ち上がって窓辺に寄り、窓の外を眺めながらつぶやく。
「……ずっとおかしいと思ってたよ」
体をひるがえし窓枠にもたれると、盛大なため息が漏れる。
「そもそも、君を見つけたあのときの状況だって、明らかに不自然じゃないか。
あんな辺鄙な森の中、軽装の女の子が武器も旅具も持たずに一人で倒れてるなんてさ。
しかも、容姿だってハイリア人には近いけど、耳は丸みがあるし、顔立ちもどこか違って見えるし。
さも異世界から来ましたって言わんばかりじゃないか。
むしろ納得だよ」
僕は捲し立てるようにそう並べ立てると、アイを見据えて笑みを浮かべた。
「ーー君の話、僕は信じるよ」
「リーバル……」
アイの目尻にまた涙が溜まる。
「ほらまたそうやってすぐ泣く」と眉間にしわを寄せ、僕はそっぽを向いた。
彼女の泣き顔を見ると、切ない半面、綺麗で、ずっと見つめていたくなるような奇妙な感覚に陥って困る。
そんな内情を悟られまいと、目を閉じた。
「そういえば……!女神様がね、私に風をーー」
アイが何かを言いかけたとき。
城の廊下を走る音が聞こえたかと思うと、勢いよく部屋の扉が開かれた。
大方、この足音は姫だろう。
彼女は自分の研究が役立てられないかと看病を引き受け、たびたびアイを診察していた。
「アイ!目が覚めたのですか!?」
案の定、血相を変えて入ってきたのは姫だった。
僕は姫が入ってくると同時、後ろ手を組んで窓辺に向き直った。
姫は気を揉んだ様子で足早にアイのベッドに近寄ると、ベッドの足元に跪いた。
窓の外を眺めるふりをしてアイたちの様子をうかがっていると、このお節介な姫はとんでもないことを口にした。
「ああ、良かった……。何日も目覚めないので、とても心配したのですよ。
リーバルも魔物の襲来がない限りはずっとあなたに付きっ切りで」
「っ……!
チッ、余計なこと言わないでくれるかな」
動揺して咄嗟に振り返るが、すぐに冷静を取り戻す。顔をしかめて舌打ちしてやった。
僕と姫を交互に見たアイは、目を伏せ、深々と頭を下げた。
「ゼルダ様、リーバル。
その、すみません……こんなときに私、ご迷惑を」
「そんな!どうか顔を上げてください」
姫はアイの肩を優しくつかむと、目尻を下げた。
「アイ。
あなたは意識を取り戻したあとも記憶がないまま、ずっと無理をしてきたはずです」
姫の目が、悲しげに伏せられる。
その表情は、僕にも見覚えがあった。
「力になりたい一心で焦る気持ち、私にはわかります。
かつての私も、自分の無力さに失望したことがありますから……」
この姫もまた、コンプレックスを抱えていた一人だ。
努力しても報われず、咎められ、諦めることも許されず。
一国の姫に生まれたというだけで、一人に背負わせるには重すぎるほどの使命が重くのしかかっていた。
人一倍苦しんだ彼女だからこそ、アイの苦しみをわかってあげられるのかもしれない。
「ですが、どうか焦らないで。
弓の訓練は、体調が万全になるまで許可できません。
今はしっかりと療養に専念してください」
「……わかりました」
姫の言葉に困ったような笑みを浮かべながらアイが僕を見た。
僕はフン、と鼻を鳴らし、窓辺に目を戻す。
「アイが倒れたのには、僕の監督不行き届きにも責任の一端がある。
少々無理をさせすぎたかもしれないね。しばらくは引き続き様子を見ることにするよ」
「そうですね。頼みます、リーバル」
姫と僕とのあいだには当然そうすべきことであるという認識があったが、なぜかアイはうろたえた様子で頬を染めた。
「えっ!?いや、あの、もう大丈夫です!この通り私、元気ですから」
意識不明から目覚めたばかりだというのに、何を言い出すかと思ったら……。
「それが駄目だって言ってるんだ!!」
「それがいけないと言っているんです!!」
姫と同時に声を荒げると、アイは「すみません!」と肩を竦ませた。
姫は頬を膨らませ「まったく!」とお小言をぶつぶつ言いながらも、アイをそっと寝かせ、布団をかけてやっている。
まるでいつぞやのインパが彼女にそうしていたのを思い出し、くすりと笑みがこぼれる。
そこで、はた、とあることに気づく。
「……で?
君はアイの様子を見るためだけにここに来たのかな?」
指先で三つ編みをいじりながら、流し目を寄越すと、姫ははっと我に返ったように「失念していました…!」とがばっと立ち上がった。
抜け目がないようでいて、意外とそそっかしいんだよね、この子……。
「リンクたち……英傑の皆さんが、ようやくそろったのです」
“リンク”という名にこめかみがぴくりと動く。
ふうん。彼、生きてたんだ。
気に食わないが、久々にその顔を拝んで笑ってやるとするか。
ひとまず庭園のガゼボに集まることになり、アイを残し、姫とともにほかの英傑たちのもとに向かうことにする。
部屋を出るとき、室内を振り返ると、アイが布団から顔を半分出しながらこちらに手を振っていた。
手を振り返すなんてこっぱずかしいことができるわけもなく、「ちゃんと寝てなよ」と言い残した。
廊下を歩きながら、ふと先ほどアイが言いかけたことを思い出す。
ーー女神様がね、私に風をーー
かぜって……”風”のことか……?
彼女は一体何を伝えようとしていたんだ?
「……部屋に戻ったら、本人に聞いてみようか」
(2021.2.26)