※夢主の過去や記憶喪失の原因について言及しています。
夢主に詳細な設定が付与されるのが苦手な方は飛ばしてください。
次話→その鷲、記憶を垣間見る(夢主視点)
「アイ、ごはんよ~」
階下から聞き慣れた母の声がかかる。
「はーい!」
あともう少しで全祠が解放なのに…!
渋々ゲームのメニュー画面を開くことで、プレイを中断する。
部屋のドアを開けたとき、漂ってきたにおいに、今日の晩ごはんがシチューだと思い出し、足早に階下に向かった。
カウンターに置かれた熱々のシチュー皿やスプーンを食卓に並べ、いそいそと席につく。
「ほんと、飽きないわねえ。
ゲームばっかりしてたら、せっかくのピアノの腕がなまるんじゃない?」
「うるさいなあ。そっちもちゃんとやってるよ」
いつものお小言に膨れっ面になるも、できたてのシチューを冷ましながら一口含むと、思わず頬がゆるむ。
「おいし~!」
「ほんと、あんたはシチューが好きねえ」
嬉しそうに微笑む母に、私は頷く。
「お母さんのシチューは格別だよ。
私も作れるようになりたいな」
「じゃあ、今度教えてあげようか」
「うん!」
端からじわじわと侵食するように、視界が光に覆われていく。
待って。
まだ、話したいことがたくさんあるの。
お母さんだけじゃない、お父さんや、友達とも。
取りとめもない話だけじゃない。
もっと、肝心なことを聞きたかったのに。
そっちはどう?みんな元気なの?
私がいなくなって、みんな心配してない?
私は、そっちじゃどうなってる?
帰ったら、今度は私がシチューを作ってあげるね。
あと、あと……。
伝えたいことが山ほどあるのに、言葉になって出てきてはくれない。
そのあいだにも視界はどんどん白に染まっていく。
やがて、母の姿も食卓もかすみ、あたり一面が白一色に染まったとき。
どこからか、女性の声が聞こえてきた。
〈ーーアイ〉
透き通ったようなその声がどこから来るものなのか、あたりを見回すが、姿は見当たらない。
〈ーーどうか、そのまま聞いてください。
私は、ハイラルで”女神”と呼ばれる者。あなたの意識に直接語りかけています〉
女神様……?
声に出そうとするが、私の喉は声を失ってしまったかのように音を発することができない。
無声映画のように口がパクパクと動くだけだ。
〈ーーあなたには何度も語りかけていましたが、こうしてようやくあなたと意識をつなぐことが叶いました。
あなたにとっては非常に酷なことですが、どうしても伝えなければならないことがあるのです〉
女神の声色に陰りが帯びる。
次に来る言葉は、何となく予測できた。
なんせ、こんなありえない状況に置かれているのだから、少しも考えなかったわけではない。
〈ーーアイ。あなたに刻限が近づいています。
あなたは間もなく、生を終えてしまう〉
覚悟はしていたが、それでも女神の言葉は私の胸に重くのしかかった。
私は、死ぬの……?どうして……。
〈ーーなぜ、とお思いでしょう〉
女神は言葉を発せない私の代わりに代弁する。
もしかすると、私の想像したことを読み取れるのだろうか。
〈ーーあなたは元いた世界で、事故による転落で昏睡し、重篤な状態にあります。
今は、生死の境をさまよっているのです〉
私が高いところに強い恐怖心を抱くのは、そのためだったのか。
言葉も発せず、目をうろつかせることしかできない私に、女神はなおも続ける。
〈ーーあなたは今、長い夢を見ているのです。
ですが、ただの夢ではない。
夢を通じて、こちら側の世界に到達したというべきでしょう〉
つまりは、現実では夢を見ているが、こちらの世界では実際に存在しているってこと……?
確かに、ハイラルでの感覚は現実味があった。
風が頬を撫でる感触や、食事のにおい、そして、高いところから下を覗き込んだときの足がすくむ感じ。
彼……リーバルの透き通った翡翠の目の輝き。
どれをとっても、本物としか思えなかった。
いや、現実だと信じて疑ったことなどなかった。
〈ーーつまり、この世界は、あなたの夢……すなわち想像のなかでもあり、独自の世界でもあるのです。
あなたのいた世界とは別次元に存在し、あなたの死後も続くことでしょう〉
じゃあ、もし、死んでしまったら?
私は、どうなるの……?
〈ーー元の世界でのあなたの肉体が消失したとき、こちらのあなたの肉体も消失してしまうでしょう〉
そんな……。
私は、なんのためにここに来たの……?
〈ーーあなたは元の世界で、こちらの世界のことを強く案じてくれましたね。
その切なる想いが、このような奇跡となり、あなたをこの世界に遣わした。
私はそのように考えます。
ーーそして、もう一つ〉
女神は一呼吸置き、続ける。
〈これはあなた自身も疑問に感じていたことでしょう。
なぜ、出会って間もない異種族の者に、恋慕の情を抱いているのか、ーーと〉
どきりとした。
そこまで見抜かれているとは。
女神の言う通り、私はリーバルに対して初対面の相手に抱く以上の特別な感情を持っていることに気づいていた。
確かに彼は異種とはいえ、人間の私が見ても容姿やたたずまいが魅力的だと思う。
それでも、「一目惚れ」などと簡単な一言では片付けられないほどの感情が、彼を見るたびにこぼれ、私の心をかき乱す。
だから、ずっと不思議に感じていた。
この強い想いは何なのだろうと。
〈ーーあなたは、幾度となく意識の浮上と昏睡を繰り返し、そのたびにこちらの世界に来ていました。
都度、こちら世界の住人とあなたの記憶は白紙にされていたようですが。
ーーおそらくは、この世界に到達するごとに、お二人は記憶がないながら幾度となく引きつけ合い、別れが訪れようとも都度想いだけは消えることなく蓄積され、強い結びつきとなっているのかもしれません〉
そんな。
彼とは、あの橋で出会ったのが初めてではなかったってこと……?
いや、記憶がリセットされているなら厳密には初対面のはず。
っ……ああ、もう!
わけがわからない……!
〈ーー多くを語りすぎましたね。
混乱させてしまい、すみません〉
いや、女神様は何も悪くないです……。
でも、何なの……。
何で何回も記憶をリセットされなきゃいけないの……。
こんなかたちで教えられたとしても、何一つ思い出せない。
ただ、思い出せないことが虚しいだけだ。
夢から覚めてしばらくすると、夢の内容をさっぱり思い出せなくなるように。
本当に初めて出会ったころのことも、その次も、そのまた次だって、覚えていたかった。忘れたくなかった……。
最初に出会った私たちだって、きっとそうだったに違いない。
〈ーーあなたは都度記憶が失われてきたことを残酷だとお思いかもしれませんが、本来であればつながることのなかった世界に何度も訪れ、出会うはずもなかった者と度々巡り合うというのは、奇跡のなかの奇跡、といえるのですよ。
ですが、それももう、あとわずかしか叶いません。
あなたの意識は、もうほとんどこちら側にあることにお気づきですか〉
これまでどのくらいのスパンで意識が浮上していたのかはわからない。
けれど、リトの馬宿で目覚めてからの記憶はずっと継続しているという私の認識が正しいのなら、この世界にいる時間が長ければ長いほど、あちらでのタイムリミットは迫ってきているということだ。
私に残された時間は、あとどのくらいなのだろう。
もう一度、リーバルに会いたい。
声が聞きたい。
いじわるだっていい。
もう一度、私を見つめてほしい。
〈ーーアイ〉
女神が、改まったように私の名をささやく。
〈ーーあなたに、二つ、望みを与えましょう〉
(2021.2.24)