倒れていたところを行きずりの人に介抱され、リトの馬宿で目覚めてから、ひと月が経った。
意識を取り戻す前の記憶はないが、不思議と自分の名前は覚えている。
お世話になっているお礼がしたいと宿の主人にお願いしたところ、動物たちの世話をしたことがない私に配慮してのことか、主に客室の清掃や宿泊客の食事作りなどできる範囲で任せてくれるようになった。
ここはのどかだ。人も皆優しい。
おかげで記憶喪失であることを不安に感じずに済んでいる。
でも、いつかは自分の記憶も取り戻したい。
このままでもいいかと思うこともあるが、漠然とだが、いつかは思い出さなければならない気がするのだ。
宿の店主さんは「ずっといてくれてもいいんだよ」と言ってくれるし、いっそのことご厚意に甘えてしまおうかと思うこともあるが、ここにずっといるわけにもいかない。
旅の資金もだいぶたまってきたので、そろそろ宿を出ようかと考えていたところだ。
ここを出たらまずは、近隣の森で倒れていた私を馬宿まで運んでくれた人に会いに行って、助けてもらったお礼がしたい。
その人は、ここからすぐそばのリトの村に住むリト族。
リーバルという名前らしい。
彼はこの近辺ではかなりの有名人らしく、私を抱えて馬宿にやってきた彼に、宿に滞在中の人々は大騒ぎしたそうだ。
ここに運ばれた当初気を失っていた私は、彼の容姿や声はおろか人となりもわからない。
宿のみんなの話でしか彼のことを知らないのだ。
記憶とともにこの世界の常識もほとんど失われてしまっているため、彼が人間ではなく鳥の姿をしているというのにもひどく驚いたくらいだ。
ときどき馬宿の空を大きな鳥が羽ばたいているのが見えるから、おそらくあれがリト族だろうが、近くでお目にかかったことはいまだにない。
だからこそここを発ってリトの村に行きたいのだが、リトの村に行くには自分の最大の弱点を克服しなければならない。
それは、高所恐怖症だ。
私は、高いところに異様なまでの恐怖心を感じる。
リトの馬宿も崖の淵に建っているため本当は怖いのだが、なるべく考えないようにしている。
それでもときどき突風が吹くと、そのまま吸い込まれてしまうのでは……などと谷底に落ちたときのことを思い浮かべてしまい身震いする。
それほどまでに怖いのだ。
ここまでの恐怖心を抱く理由は検討もつかないが、おそらくは記憶を失う前に起こったできごとによるトラウマだろう。
そんなこんなで、今日もリトの村に続くつり橋を眺めては、自分のふがいなさにため息ををついて終わるはずだった。
どうしてこうなったのか、私は今、そのつり橋の中腹で縄にしがみついている。
このひと月、今日こそはと願いつつもあと一歩を踏み出せなかったのに、ついに会いたい思いが恐怖心を上回ったのだ。
宿の主人や滞在中お世話になった方々との挨拶を済ませ、自分にはもったいないくらいのお給金をいただいた私は、いざとつり橋に向かった。
そうしてつり橋を渡り始めたものの、一歩、また一歩を踏み出すごとに恐怖心の器は水かさを増し、中腹で突風に煽られた橋が大きく揺れたとき、とうとう器はあふれ返ってしまった。
額や背中を嫌な汗が伝う。
こういうときの神様はいじわるなことに、なかなかつり橋の揺れをおさめてくれない。
まるで怖がる私をもてあそんでいるかのようだ。
「誰か、助けて……」
目をかたく閉じて絞り出すようにつぶやいたとき、頭上でより一層強い突風が吹き荒れた。
「おやおや、小鹿が橋に足を挟めたのかと思って来てみれば……また君じゃないか」
頭上から当てこすりにしか聞こえない言葉が降ってきたかと思うと、目の前に誰かが降り立った気配がした。
そっと目を開けると、黒くて大きい鷲のようでもあり、鷹のようでもある……いわゆる猛禽類のような足がそこにあった。
足先からたどり頭上を見上げると、鳥人……もとい、リト族と思わしき人物が心底怪訝な顔で私を見下ろしていた。
(2021.2.8)