微甘。夢主視点。
プルアの研究を補佐する夢主は、悩殺される日々のなか、時折任務で研究所を訪れるリーバルの姿を拝むのが唯一の楽しみだった。
ある日、オーバーワークによる疲労が祟り数日の休暇を余儀なくされた夢主の自宅に、思いがけぬ来訪者が現れる。
王立古代研究所で研究補佐として雇われて早一年。私は、プルアやほかの研究員が各地から持ち帰った遺物の調査結果をデータをまとめる業務を言付かっていた。
初めは数人がかりでこなしていたはずが、遺物調査の増援で私以外のメンバーが皆出払ってしまう日が多くなり、いつしか私一人でこなす日々が続いていた。
元より少なくない業務量だったものが私一人に託され、食事も睡眠もほとんど取れない日々。
いつ厄災が復活するとも限らない今「きつい」なんてみんなが思っていることを私一人が口にできるはずもなく。疲労が限界に近づいたある日、見かねたプルアから声をかけられた。
「アイ、あんた大丈夫?」
「だ……大丈夫です」
とは言ったものの、正直かなり限界に近い。
返した笑みがぎこちなかったであろうことは、プルアの渋い顔を見ればわかる。
「もう何日もろくに休んでないでしょ?こんなときだから休まず働いてくれるのはありがたいけど、いざってときに身体が言うことを聞いてくれなくなったら、逃げ遅れちゃうわよ」
「でも……」
「大丈夫、あとは私たちだけでも何とかなりそうだから」
あんたがここまで進めてくれたおかげでね、と添えてくれた一言が、私のなかで凝り固まった罪悪感をほぐす。
ロベリーには無茶ぶりしたり良いように使ったりする部分はあるけれど、私やほかの研究者たちにはこういう細やかな気遣いをくれるのが彼女の美点だ。
「もう上がちゃっていいから、数日休みなさい」
「すみません、プルア。こんなときに……」
「いいのいいの。こちらこそ無理させて悪かったわ。あんたの家、城下町の外れだったわよね。あとで誰かに軽い食事と薬を持たせるから」
「ありがとうございます」
お言葉に甘え、さっと荷物をまとめると研究所をあとにする。
思えばしばらく研究所泊まりで、自宅に帰るのは数日ぶりだ。研究所内にも簡易ベッドはあるが、ちゃんと落ち着ける場所で休まなかったのも良くなかったかもしれない。
しばらく掃除もできていなかったし埃っぽいかもしれないけれど、慣れ親しんだ部屋で眠れるならもうどうでも良かった。
久々に自分の時間が持てるのは嬉しい。嬉しいけれど、少なからずがっかりしてもいる。
このところ、プルアたちの遺物調査の護衛として任務に参加しているリーバル様が時折研究所を訪れる。
挨拶を交わすくらいで会話をしたことはほとんどないが、彼の姿をはじめて目にしてときからずっと気になっていた私にとって、彼が訪れる短いひとときが日々の癒しだからだ。
それなのに、こうして休むことになっては、彼の姿をしばらく拝めなくなってしまう。
ふらふらとよろつく体を引きずりながら、やっとたどり着いた我が家を前に、大きなため息がこぼれる。窓に映った自分の顔は、少し気落ちして見えた。
もたつく手で鍵を回しドアを開けると、こもった生ぬるい空気が外に漏れ出る。
案の定少し埃っぽいが、そんなことに構っていられる余裕はない。
ぞんざいに鍵をかけ、手近なところにバッグを放る。
床に散乱する書類を踏みつけてしまうのも構わず、横たわるソファに吸い寄せられるように倒れ込んだ。
布に染み付いた自分のにおいが疲れた体に脱力感をもたらし、睡魔を呼び寄せる。
ベッドに行くのも億劫だ。なんて考えているあいだにも視界の端が黒ずんでいき、一気に意識が飲み込まれていった。
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扉が叩きつけられる音に、沈み込んでいた意識が引き上げられる。
強い風でも吹いているのだろうか。ぼんやりとする思考でそんなことを浮かべているあいだにも急かすような調子で打ち鳴らされる扉に、ややあってそうではないと気づき、意識がはっきりしてくる。
こんなタイミングで来訪者なんて。スルーしてしまいたいところだが、プルアの使いの人かもしれない。
気だるい身体をどうにか起こし、のろのろと扉に向かう。
「はー……い……」
ノブを押し開けた途端、思考が止まった。
扉の向こうに現れた人物は「やっと出てきた」とため息交じりにぼやくと、薄く開いた扉に翼の先をかけ、ぐいと大きく扉を開いた。
「り……リーバル様っ!?」
衝撃のあまり思わずノブを掴んだ手を離してしまうが、そのまま押し入ってくるリーバル様に我に返り、慌てて制止する。
「ちょ、ちょっと待ってください!その、しばらく片づけてなくてすごく散らかって……!」
遠回しに引き留めようとするが、リーバル様は私の言葉に聞く耳を持たない。
後ろ手に扉を閉ざすと、持参した袋をテーブルに置くなり部屋を見回し始めてしまった。
一生の不覚だ。せっかく好きな人と二人きりの対面だというのに、こんなに散らかった部屋を見られてしまうなんて。
恥ずかしすぎて今にもどうにかなってしまいそうな気持ちを押し込めるように、両の手で額を押さえる。
「フン……まあ、大方しばらく帰ってこられなかったってとこだろ。この散らかりようなんて想定のうちだよ」
てっきり幻滅されると思っていただけに、存外あっさりとした反応が返ったことに驚く。
「体調が悪いんだろ?立ってないで座りなよ」
「は、はい……」
持参した袋の中身をテーブルに広げるリーバル様に促され、のろのろとソファに身体を預ける。
私が座ったのを確認するようにこちらに一瞥を寄越したリーバル様と目が合い、どくんと心音が跳ねる。
手近なクッションを抱きしめ、手際よく荷物を広げていく背中を見つめる。あのリーバル様が、私の家にいる。
薬、食材、飲み物。……持ってきた荷物から察するに、プルアのお使いのようだ。
リーバル様にお使いを頼むプルアもなかなかに肝が据わっていると思うが、こういうことを嫌がりそうなリーバル様が引き受けてくれた経緯もなかなか気になる。
「食事は?もう済ませたのかい?」
「いえ……リーバル様がいらっしゃるまで横になってましたから、まだです」
そう答えると、リーバル様は納得するように相槌を打ち、何やら荷物のなかから食材を取り出し始めた。
「リトの英傑の手料理が食べられるなんて、またとない貴重な機会だよ。ありがたく思うんだね」
「届け物をしてくださっただけでも十分ありがたいのに、食事の用意まではさすがに申し訳が……」
私のような末端の研究者一人のために、この国の要たる英傑の手をこれ以上煩わせるわけにはいかない。
部をわきまえて遠慮したつもりが、なぜかリーバル様は顔をしかめた。
「いいから。君は黙って休んでなよ」
「す、すみません……」
私が引き下がったことにどこか満足した様子のリーバル様、ふたたび食事の用意を再開しはじめる。
しかし、ふと何か思いついたようにこちらを振り見ると、からかうような笑みを軽く浮かべた。
「お望みとあらば、ベッドまで運んであげてもいいけど?」
「は……ええっ!?」
リーバル様に横抱きに抱えられるのを想像してしまい、手にしたクッションをきつく握りしめる。
ふっと噴き出したリーバル様は、くちばしの先に翼を添えて笑いをかみ殺しながら、冗談さ、と呟いた。
どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか。
けたたましく鳴り響く心臓に、冗談であって良かったと安堵する反面、本気だったらどんなに良かったかと歯がゆい思いが心をかき乱す。
「寝室は……こっちか」
私の許可を待たず寝室に向かうリーバル様に、また一つ散らかった部屋を見られてしまうのかと冷や汗が浮かぶが、毛布を手に戻ってきたリーバル様は何を言うでもなく毛布をさっと広げてかけてくれた。
毛布を握りしめ、ありがとうございます、とつぶやく。
リーバル様は何かもの言いたげに私をじっと見下ろしてくるが、開きかけたくちばしは逸らされた視線とともに閉ざされてしまった。
ふん、と鼻を鳴らすと、今度こそ料理を再開しはじめた。
レシピを思い出そうとしているのか、時折くちばしの先をつまみ考え込むように宙を仰ぐ様がめずらしく、リーバル様とて完全無欠というわけではないのだなと、少しだけ親近感が湧く。
悪戦苦闘しながら料理をする後姿を微笑ましく眺めていうるちに、安心感に満たされ、再び意識がまどろんできた。
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次に目覚めたとき、すでにリーバル様の姿はなかった。
まだいてくれてるんじゃないかとほんの少しばかり期待していただけに、急速に気持ちがしぼむが、仕方がないと思い直す。彼は英傑なのだ。
こうして貴重な時間を割いてまで私の元を訪れてくださった。それだけでも十分過ぎるくらいだ。
それに、今度研究所でお会いしたときに話しかけるきっかけがこれでできたと思えば、むしろこれはチャンスだと言っていい。
霞む目を擦り部屋を見渡し、目を見張る。あんなに散らかっていた部屋が見事に片付けられているのだ。
床に散らばっていたはずの書類はきれいにまとめられ、放置していた衣服や小物もすっきりと整頓されている。
十分すぎるなんてもんじゃない。
「至れり尽くせりだよ、こんなの……」
つう、と甘い香りが鼻を掠め、そういえば、とソファから立ち上がり、よろめきながらテーブルに向かう。
そこに置かれたままの小さな鍋は、まだほんのりと温かい。蓋を開けると、少し冷めかかったミルクスープが用意されていた。
ふと鍋の下にメモが挟まれているのに気づき、気持ちが高ぶる。リーバル様の書き置きだ。
“起きたら食べるように”
その一言だけだが、リーバル様の直筆かと思うとこのたった数文字さえ愛おしい。
冷めきらないうちにいただこう。
鍋の側に添えられていたおたまを手にスープをすくい、椀に注ぐ。
眠っているあいだの記憶はほとんどないが、おぼろげな意識のなかでリーバル様の気配だけが微かに思い出される。
緊張したけど、すごく幸せなひとときだったな。もし私の想いが受け入れられたら、彼のあんな姿がいつでも見られるのかな。
そう浮かべた途端、ある記憶に行きつく。
手にしていたおたまが手から鍋に滑り落ちた。
スープが少し服に跳ねたが、おぼろげな記憶のなかで唯一、確かに浮かんでくる言葉が気になってそれどころではない。
「君が僕を好きなことくらい、とっくにわかってるんだ。……アイ」
掠れたささやきが頭の中によみがえり、きゅっと胸が締まる。
あのときの彼は、いったいどんな顔をしていたのだろう。
次に会ったときはもっと気軽に話しかけられると思っていたのに。
すでに気持ちを見抜かれているなんて。いったいどんな顔をして会えばいい?
羽毛に覆われた指先が私の頬を優しくなでる感触が、まだ微かに残っている。
それを辿るように頬に指を這わせ、下唇を噛みしめた。
(2024.04.17)