僕がこの小さな部屋に召喚されて、10日が経った。
あれからあの女ーーアイというらしいーーがしらみつぶしにまじないを試してはいるが、どれも何の効力も示さず、一向にハイラルに帰れる気がしない。
まあ、帰れたところで、あちらは100年後の世界だ。住むところもなければ帰る場所もない。そうでなくとも僕はもう死んでる。
しかし、果たすべき役目を残してきたんだ。不在のあいだに僕以外のメンバーでガノンを封印……なんて考えたくもない。それこそ本当に犬死になってしまう。
なおさらこんなところでのうのうとしちゃいられない。それなのにだ。この一大事のときに限って新たな問題が浮上する。自分で帰り方を探ろうにも、この世界のものに触れることができないのだ。
それでも少しでも何か試したくて、まじないの本やシーカーストーンのような端末ーースマートフォンというらしいーーでウェブサイトとやらを見せてもらったが、愕然とした。大方想像はついていたが、この世界の文字は読むことができない。
そのうえ、歯がゆいことに彼女はほぼ毎日仕事に出かけるため、肝心のまじないを試せるのは彼女が帰宅して寝るまでのわずかな時間のみ。
情報を得られるかはともかく、せめて気晴らしに周辺の探索でもしようと、彼女が出かける際に扉を開けてもらったが、部屋と外の境に見えないバリアが張られていて出られないことがわかっただけだった。
何の手立てもなく、この狭い空間に縛り付けられる。カースガノンに囚われていたときとまるで同じだ。
生前の僕は、のさばり慎ましく生きてこそいなかったかもしれないが、業を背負わなければならないほどの悪行を働いた覚えはない。……ちょっとばかり他人に意地悪をしたことくらいはあるが。
身命を賭してハイラルに貢献してきた僕への餞がこれか。
もし神が実在するとしたら、それはそれは底意地の悪い性格をしているに違いないだろう。世のために命を犠牲にした者に、死してなおさらなる試練を与えようというのだから。
けれど、あの100年にも及ぶ孤独という名の拷問に比べれば、今のこの状況は幾分かマシだと言っていい。半日経てばこの家の主が帰ってくるんだ。完全に独りきりってわけじゃない。
帰宅するたびに「なんだ、まだいるんですか」だなんて失礼なことを言うようなやつだが、口先ではそんなことを言うわりに、なぜか僕を見るなりいつもほっとしたような、いかにも「寂しいです」って言いたげな顔をする。お遊びのまじないなんぞ試して僕を呼び出したことについてはまだ許しちゃいないが、どこか憎みきれない。
それに……対等に振る舞うあの感じは、かつての仲間との日々が思い出されて、嫌な気はしない。
このままここにいたいかって聞かれれば、さすがにそれはお断りだが。
女が一人で外を出歩くのは危険じゃないのかと問えば、夜道は安全とは言い難いが、明かりが灯っているし魔物は出ないから大丈夫だと彼女は笑った。武器も防具もなしに出歩けるとは、つくづく不思議な世界だ。
彼女は荷物を片付けると真っ先に服を着替える。高貴な身分でもないくせに外出時と自宅とで着るものを分けているようだ。
自分が女として見られているとでも思っているのか、毎度僕の目を逃れるように脱衣所に向かうのが滑稽だ。
人間のはだかなんて見ても何の興奮もしないと笑ってやれば、あなたが良くても私には恥じらいってものがあるんです!とやり返された。
まったく、誰に向かってものを言ってるんだ。僕が”英傑”に選ばれた稀代の戦士であることは出会ったその日に伝えたはずだが、どうやらこの女には地位の高い相手に無礼を働いているという認識がないらしい。
部屋着に着替えると、アイは台所に立った。
彼女は毎日欠かさず僕のぶんも食事を用意する。ものに触れることができないということは、食事をとることだってもちろんできやしないというのにだ。
目の前に丁寧に盛り付けられた皿を並べられては無視するわけにもいかないので、とりあえず毎回彼女の向かいに立つようにはしているが、正直面倒だ。
自分が食事をとる向かいで異種族の幽霊がただ立ち尽くしている状況を望むなんて、イカれてるとしか思えない。
はじめは馬鹿馬鹿しすぎて「今後は作らなくていい」ときっぱり伝えた。だが、親切でわざわざそう言ってあげた僕に対して返って来た言葉はあまりに無神経だった。「お供え物です」だと。
冗談なのか真面目なのか知らないが、彼女のその身勝手さは、自分の死をまざまざと突きつけられているようで初めは正直心底腹が立った。
沸々と業を煮やす僕にさすがに申し訳ないと思ったのか「目の前に人がいるのに自分のぶんだけ用意するのは申し訳ないし、一人の食事は寂しい」と彼女はぼそぼそと付け加えた。……エゴにも程がある。
けど、一人の食事が侘しいものだというのは、まあ、わからないではない。だからじゃないが、ままごと遊びに付き合うつもりで仕方なくいいようにさせてやっている。無意味にしか思えないが。
彼女が料理をしているあいだ”テレビ”とかいう装置に映し出される動くウツシエを眺めていると、ほんのりと香ばしいにおいが漂ってきた。
嗅ぎ慣れたその香りに、何だか無性に懐かしさが込み上げ、思わず台所に向かう。
「このにおいは……」
「あ、わかります?」
彼女の肩越しに手元を覗き込む。フライパンの上でじゅわじゅわと音を立てほのかに甘い香りを立たせるサーモンに、腹が空きもしないのにごくりと喉が鳴る。
「塩焼きにしようかと思ったんですけど、バターと小麦粉が少し余ってたのでムニエルに……」
くるりと振り返った彼女の唇が、僕のくちばしをすり抜ける。
「えっ!?ああっ!えっと、えっと……ごめんなさい!!」
「……大げさだな。どうせすり抜けるんだ、こんなのしたうちに入らないだろ」
別に口づけをした感覚なんてないが、慌てふためく彼女に僕まで狼狽えそうになって、動揺を悟られないように茶化しながらリビングに戻る。
「そ、そうですよね……すみません」
なおもおろおろとする様子がどことなくミファーと重なり、おかしくてつい噴き出してしまった。
こんな気持ちになったのはいつぶりだろう。何だか、胸の内側が温かだ。
「はい、どうぞ」
目の前に出されたムニエルは、ほかほかと湯気を立て、僕の鼻腔をいたずらに刺激する。
食事ができないのをここまで悔やんだことはない。自分の体を不便に感じたのは生まれてこのかた初めてだ。……もっとも、すでに死んでいるが。
好物を前にして食べられない虚しさにイライラしていると、目の前にすっとサーモンの端切れが差し出された。
「……何してんの」
「えっと……あーんしてください」
「は?物理的に無理に決まってるだろ……じゃなくて!たとえ食べられたとしても君の手からなんて、絶対に嫌だね!」
「まあまあそう言わず。できることは何でも試してみればいいじゃないですか。もしかしたら食べた気にはなれるかもしれませんよ」
できることは何でも、という言葉に、何でも臆さず食していたあいつの顔が浮かぶ。
何を馬鹿なことをと頭では思うのに、どうしても目の前のサーモンに視線がいってしまう。
苦渋の決断の末、やっぱりいらない、と言いかけた僕の口内に、いきなり”オハシ”が押し込まれた。
厳密にはすり抜けただけで、やはり触感は感じられなかったが、じんわりと口内にバターとサーモンの塩気と甘味が広がり、目を見開く。
「おい……しい」
思ったことがそのまま漏れてしまい、羞恥に顔を背けたとき、目の前で彼女が椅子を倒す勢いで立ち上がった。
「ほんとですか!?じゃあ、味はわかるんだ……!」
あんまり嬉しそうに笑うもんだから、つられて僕まで少し笑みがこぼれる。
「”君がどうしてもって言うなら、もう一口、食べてあげてもいいよ”……なんて言っちゃったりして?」
僕の口真似でもしているつもりだろうか。もう一度眼前にサーモンをちらつかせられ、あからさまに顔をしかめてやった。
「はあ?この僕が?調子に乗るのもいい加減にしなよ。そんなこと言うわけないだろ!」
「はあ……かわいくないなあ」
とことん失礼なやつだ。けど、残念そうに”オハシ”を引っ込める様子がいじらしくて、おかえしにサーモンを”横取り”してやった。
案の定、アイは不意打ちに驚いて目を見開いている。マヌケなやつだ。
「ま、気が向いたらまた食べるふりくらいしてあげなくはないかな」
そんなことを言ってしまったばっかりに、また調子づいてサーモンを差し出してきたので、今度こそ丁重に断った。
仲間にも女は数名いたが、姫やミファー、ウルボザは物腰が落ち着いて淑やかな印象だった。プルアやインパは僕にも臆さず物を言いはしていたが、僕に対してここまでお茶目に振る舞ってきた記憶はない。
まあ、僕が取っつきにくいせいで冗談を言いづらかったんだろう。自覚くらいはある。
だが、アイは僕がいくらキツイことを言っても物怖じせず、のらりくらりと受け流してしまう。かといってナメているような印象も受けない。ごく自然なのだ。
ありのままを受け入れられている。……そんな気がしてしまうほどに。
そんなことを浮かべながら、食器を洗う音に耳を傾けていたときのことだった。ふと自分のなかに変化が起こっていることに気づいた。
何とも言い表しがたいが、例えるなら、朝すっきりと目覚めたときのような、高台で羽を休めているときのような。力がみなぎる感じがするのだ。
感覚に従い、思うままに食卓に置かれたマグカップに手を伸ばす。
指先に熱を感じ、反射的に手を引っ込めた。
さすがに触れられはしなかったが、先ほどまで微塵も感じられなかったはずの”熱さ”を、確かに指先に感じた。
(2021.12.30)
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