聖なる子守唄

2. ハイラルの捕虜

リト族の男に捕らえられ、縄で縛られたまま空を渡って見知らぬ地まで連れて来られたときには夕刻を迎えていた。

始まりの台地やハイラル城くらいの高所であれば平気だが、それは足がついていたからであり、それ以上の高所に登ったことも宙を舞ったこともない私には、自分の意思と関わりなく中空を運ばれることはただただ恐怖でしかなかった。
夕焼けに映える空も、地平線の彼方へ沈みゆく大きな夕陽も、自分の足で地に立って眺めていたなら、きっと美しいものに映ったに違いないのに、羽ばたきに揺れながら見たその橙は、どこか不気味ささえ感じさせ、いつ振り落とされるかもしれないこの状況を嫌というほど目に焼き付けてきた。
浮遊感に対するイメージとはもっと体が軽くなるような心地よいものだと考えていたが、実際は胃が浮くような不快感を伴う。
山よりも高いところから景色を眺めることへの憧れを失うには十分すぎるほどのものだった。

理性を手放しそうなほどの恐怖心で心は満たされていたが、どうにか自分の居場所くらいは把握しておくべきという頭だけは辛うじて残っていて良かった。
地図でしか見たことはないが、方角や上空から確認した地形から推測するにおそらくリト族の集落があるヘブラ地方だろう。

さほどの高地ではないはずなのに、小屋のなかに吹き込む風は冷たく、身を刺すような寒さに体がぶるぶると震える。
暖炉に火を入れたいが、薪はあっても火をおこせるものが何もない。

閉じ込められてかれこれ数時間が経っただろうか。
見張りの者が代わるごとに奇異の目でなかを覗かれては、皆一様に忌々しげに顔を歪める。

逃げようにも足首を縄で固く縛られてベッドの脚に繋がれており、見渡す限り縄を解くのに使えそうなものも見当たらない。
そもそも両手も後ろ手に縛られているせいで解けないかもしれないが。
それに、万一縄を解いたとしても外にはリト族がいる。
人よりも大柄で飛べるほどの腕力を持つ者に戦いを知らぬ私が太刀打ちできるわけがないし、万一隙をついて逃げ出せたとして、馬よりも速く空を翔けるあの翼ではすぐに追いつかれてしまうだろう。
ほかに手立てもなく、私に与えられたのはひたすら時が過ぎるのを待つという苦痛のみ。

このような状況でもお腹はすくものらしく、何度目かの腹鳴に下唇を噛みしめた。

そのとき、突然外で話し声が聞こえ始めたかと思うと、強風で窓がガタガタ揺れた。
窓辺に寄り掠れたガラスから外の様子をうかがうと、とうに目に焼き付けられてしまった紺の羽毛が目に留まった。
確か、町で助けたリト族に”リーバル様”と呼ばれていた青年だ。
窓越しに磨かれた翡翠を埋め込んだような鋭い双眼と視線が合い、唾を飲み込む。しかしリーバルは一瞥を寄越しただけですぐに見張りの者とやり取りを始めてしまった。

見張りの者はリーバルに敬礼をすると、そのまま飛び立ってどこかへ去ってしまった。
緩慢な足取りでこちらに向かってくる鉤爪の気配がして、身を固め薄い木の扉を見つめる。
裂けた木目から漏れる光を人影が遮ったとき、勢いよく扉が開かれた。

細雪をまとう凍った風が吹きこみ、頬を打つ。
すぐさま扉が閉ざされたことで小屋はやや暖気を取り戻しはしたが、元よりさして温かくはないことを肌がすぐ思い出し、ぶるりと身が震える。

リーバルは閉ざした戸に片翼を添えたまま横目にこちらを振り返り、私の頭から足のつま先まで舐めるように見るなり鼻を鳴らした。
まるで汚物でも見るような冷たい眼差しに、不快感がむかはぎを這い上がってくる。

「お待たせしたね。ちゃんと大人しく待っていられたかな?」

子どもを諭すような言葉選びに反し高圧的な声色に身が固くなる。
脅しとも戯れとも取れるその問いには答えず、できるだけ凛と声を張り要点のみを伝えることにした。

「けが人の治療のために私を連れてきたのであれば、どうしてこのようなところに閉じ込める必要があるというのですか。治療が済めば王国に帰らせていただけるのですよね?」

「さあ?そんな約束はした覚えがないな」

まるでそうくるとわかっていたかのように、言い終える前に鼻で笑われ、食い気味に却下された。

後ろ手を組みゆったりとした足取りで一歩ずつ歩み寄ってくるかぎ爪の音に胸の鼓動が早くなる。
しかし、私の少し手前で立ち止まったリーバルは、私を尻目に見下ろしていた視線をついと小窓の外に向けた。

あまりの無情さに、ダメだとわかっていてもはらわたがグラグラと煮えくり返る。

「……あんなに町を焼いて、ただで済まされるとお思いですか?」

耐え切れず投げつけた恨み言に、リーバルの眉がピクリと動いたのを見逃さなかった。
涼やかな表情に対し、寄越された流し目には燃ゆるものがちらついている。

その視線から逃れようと顔をうつむかせた私の頭上に、ぬらりと影が落ちる。

「……目には目を」

大きな片翼が目の前に現れ、驚く間もなく力強い指先であごを上向かせられた。
黒い炎をまとった翡翠が、私の目の奥を焼かんばかりに注がれる。

「先に村を襲ったのは王国だ。僕らには報復する権利があると思わないか?」

妖艶な緑の輝きに目を奪われそうになりながらも、辛うじて”いいえ”と首を振る。

「同じく暴力で報復しては、負の連鎖を生むだけだとしか思えません」

答えがよほど気に食わないのか、したたかに舌打ちをすると、私のあごから乱暴に指先を退けた。

「そうやって綺麗ごとばかり並べ立てている君にはわからないんだろうな。戦いを知らない小さな子どもにまで見境なく刃を振るわれた者の胸の内なんてさ。なかには戦士の不在のときに抗う術も知らず家屋を焼き討ちにされた者もいるんだぞ」

「であればこそです。故郷の人々の受けた痛みがわかるあなたになら、城下町を襲えば何の罪もない方々まで脅かすことになると理解できたのではないですか?」

リーバルの目が見開かれ、顔がこわばったのがわかった。
しかし、その顔はすぐにしかめられ、固めたこぶしを宙に放ると、深くため息をこぼした。

「……何とでも言えばいいさ。僕は自分の心に従ったまでだ」

「あなたの村が焼き討ちを受けたからといって、城下町にも火をつけるなんて……!」

互いの言い分が割れたまま会話が途切れ、ひんやりとした小屋のなかにしんしんと降り続く雪の音まで聞こえてきそうなほどの静寂が下りる。

リーバルたちが町を襲って来なければ、こんな寒い小屋のなかで縛られることもなく、姫様とポプリの話に花を咲かせていただろう。今ごろ心配させてしまっているに違いない。

そんなことが浮かび悲しくなるが、凍りつきそうなほど冷たい空気が私に冷静さを取り戻させる。
町を襲ったことは許せない。けれど、侵略や理不尽な理由での攻撃ではなかったのだ。
彼らに”逆襲する”という考えを植え付けてしまうほどの怒りが、今回の事件を勃発させるまでに至らせたのだろう。
町の被害に巻き込まれた身として怒りはあれど、彼らなりの事情に少しばかりの同情心が湧く。

「君は僕らが怒りに任せて町を襲ったと思ってるだろうから、誤解がないように言っとく。
火を放ったのは僕らじゃない。狙ったのはあくまで兵士と武器屋だけだ」

「そうかもしれませんが、それでも無関係な人を恐怖に陥れた現実は変わりません」

「……要点をずらすな。そんなことはとっくにわかってる。君とはわかり合えそうにないってこともね。
それはさておき、そろそろ今回の件について客観的な話をしたいんだけど?」

自分だって主観的な話し方をしていたはずなのに、私だけが責められているような気になり、少しむっとしてしまったが、このままでは話が進みそうにないので、彼の言葉に従い頷いた。

「僕は、今回の奇襲を事前に知り、僕らの仕業に見せかけようとした輩がいると睨んでる。ただ、残念ながら断定できるほどの証拠が今のところ何もないんだよね……。
そこでさ。つかぬことを聞くけど、君はどうしてあそこにいたんだい?」

その問いにあのときの用事を思い出してどきりとする。リーバルは、私が城に奉公するヒーラーだとは知らないはずだ。
もしそれを知られてしまったら、私を材料に国にゆすりをかけたり交渉を持ちかけたりするのではないだろうか。
今さらながら、自分が迂闊にもこうして攫われたことが国に損害をもたらす可能性に考えが及び、冷や汗がどっと噴き出す。

「あの通りの近くの薬屋に用向きでうかがった帰りだったんです。その……友人から、あるものを受け取りに行くようにと頼まれて」

「あるもの、ねえ」

平静を保って答えたつもりだったが、私の言葉に引っかかりを覚えたらしいリーバルの目が細められる。

「……それ、持ち物のなかに入ってる?」

「ええ。手紙と……ポプリです」

「確認させてもらうよ」

リーバルは私の了承を待たずして小屋の隅に置かれたカバンに手を伸ばした。
異種族とはいえ男性にカバンの中身を改められる日がくるとは思わなかった。見られて困るようなものは入れていないが、それでも恥ずかしい。
リーバルはそんな私の胸中も知らず、ルピーの入った巾着を摘まんで小首をかしげながら眺めている。

ついにポプリの袋を摘まみ上げたリーバルは、袋越しに香りを嗅ぐなり眉根を寄せた。

「この香り……」

何かを察したような表情に身構えたものの、意外にも追求されることもないまま、封筒の宛名に目を落とした彼にほっと肩をなでおろす。

「へえ……君、アイっていうのか」

「……はい」

なかの走り書きには姫様の名前はなかったはず。この手紙だけでは情報の特定には至らないはずだ。それなのに。

「確か、いつだったか話題になったヒーラーもそんな名前じゃなかったっけ?」

私と同名のヒーラーなどこの世界にいくらでもいるだろう。なのに、彼はなんの根拠があってそんなことを言うのか。引いたはずの嫌な汗が背中を伝う。

「ハイラル城に、歌声で傷や万病を癒すヒーラーがいると耳にしたことがあるんだよね。なんでもそのヒーラー様は、姫直属の侍女だとか……」

「さあ……私にはわかりかねますが」

「この僕を前にして、しらを切り通そうとは、なかなかいい度胸だねぇ」

リーバルは封筒を丁寧にカバンに戻すと、ポプリを手にしたまま、片手を後ろ手に組んで私を見下ろした。
その口角は愉快そうに持ち上げられ、切れ長の目は満ち溢れる好奇心に煌めいている。

「であればこちらもアプローチを変えるしかなさそうだな。
このポプリに使われているであろう花の一つは、ヘブラ山の奥地でしか摘めない極めてめずらしいものだ。人が入山して摘むのは至難の業だろうね。
いくらハイラル城下町が交易で栄えているとはいえ、そう易々と手に入るってもんじゃない。
つまりは……君の言う友人とやらは、これを手に入れられるほど莫大な経済力があるってわけさ。……そうだろ?」

そういうことか。
彼は、ポプリの香りだけでほぼ確信したのだろう。私が何者であるのかを。

「おいおい、ここまで言及してもまだ何も答えないつもりかい?」

思わず正体を明かしそうになるが、思いとどまる。私が正式に認めれば、本当にどうなるかわからない。
下手に何か言いさえしなければ、簡単に利用しようとは思わないはずだ。
私の考えを見透かしたように、リーバルはそれ以上追求してこなかった。

「まあいい。君が答えようが答えまいがすでに核心に迫ってる自信があるからね。
ひとまず話題を戻すとしよう。町で君がこれを取りに薬屋を訪ねた際、何か変わったことはなかったかな?」

いえ、と答えかけて、ふとあることを思い出し、状況を思い出しながら慎重に答える。

「一瞬のことだったのではっきりと姿は見ていませんが、火が放たれる直前薬屋の窓に何かの影が過ぎったのを見ました」

「ふうん……なるほどね。まあ、有力な情報とは言い難い、か」

リーバルはポプリを軽く投げると、宙で掴み取ってみせた。高級なものと知っているのによくそんな風に扱えるものだ。
それ以前に、大事なものなのであまり乱暴に扱わないでほしいのだけれど。

散々言い合いをしたあとだというのに、まだこの男の本性が見えないせいか、”やめてほしい”の一言が紡げず、悶々とした苛立ちだけが募る。
けれど、次に彼の口から紡がれた言葉には、これまでの言動にはなかった配慮が少しばかり含まれているように感じられた。

「一般人を巻き込んでしまったことに、作戦のリーダーとして責任は感じてるつもりだよ。しかし、君には悪いけど、武力を誇示し警告する目的があった以上、今回の襲撃は無駄だったとは考えない。
これは僕らリトの事情だ。わかってほしいとは思わないよ」

私の置かれた状況への憐れみか、私自身への気遣いか、厳しさこそ取り払われてはいないものの、そこには確かに思慮が含まれているのを微かに感じる。
けれど、そんな慰め一つでは、この凍えるような小屋が火の炊かれた城の自室になるわけでもなければ、黒く焦げ付いた町の屋根屋根が元の美しいロイヤルブルーに戻るわけでもない。所詮、現状から逃れられはしないのだ。

「納得できないって顔だね?ま、僕の言葉をどう捉えようが君の自由だよ」

「事実の確かめようがない以上、私にはあなた方の事情をどう捉えるべきか、正直なところまだわかりません……。
こうして私を捕虜として連れてきたことで、一身に刃を向けられたとしても償いのしようがありませんし、根本的な問題の解決につながるとも思えない。私は、しがないヒーラーですから」

冗談のつもりで言ったわけではないが、最後の一言にリーバルは声を潜めて笑った。
この人の笑いのツボはイマイチよくわからない。

「自分の立場をよくわかってるじゃないか。けど、僕は何も見せしめにするつもりで君をここへ連れてきたんじゃない。
村には今回の作戦中に怪我をした者以外に、王国からの襲撃で深手を負った者が大勢いるんだ。君にはこれから彼らの手当てにあたってもらいたい。その癒しの力とやらでね」

「私にできることならお手伝いさせていただきます。……ですが、怪我人の手当てが済んだら国に帰すと約束してください」

「許可する……と言いたいところだけど、それは今後の君次第だね。誠意をもって務めを果たせば、いずれは解放することも考えよう」

「ありがとうございま……」

「ただし」

彼の譲歩に嬉々として笑みを浮かべた私の眼前に、その気になれば私の顔を覆い尽くすこともできるほどの大きなくちばしが迫り、身が凍る。

「もし解放した後でこの村でのことを少しでも口外しようものなら……僕の放つ矢が君の脳天を貫くと覚えておくといい。……いいね?」

その一言は、ここがあくまで敵陣で、彼がその主将であるということを思い出すには十分だった。
もしかすると、これまで私が対等に話すことを一切咎めなかったのも、優位に話を進めるための策略だったのかもしれないと思い知る。

「ところで、どうやらこのポプリは君にとって大切なもののようだね?
であれば少々酷なようだけど、君が信頼に足るやつだと認められるまでは僕が預かっておくしかないな。ここから逃げ出そうなどと愚かなことを考えないようにね」

彼は私が奪い取れないのをいいことに、わざわざ眼前にちらつかせたあと、大事そうに腰のポーチにしまい込んだ。
忘れかけていた怒りが、まざまざと蘇る。

「改めて、僕はリーバルだ。これから君の監視役として側に立たせてもらう。
せいぜい期待を裏切らないでくれよ?……ハイラル城お抱えの聖女サマ」

(2021.9.2)

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