聖なる子守唄

19. 砂漠の月下(上)

遠い、遠い記憶のなかのこと。
物心つくころ、神殿には年上の男の子がいた。
彼にも身寄りがおらず、私と同じく生まれてすぐ神殿に拾われたそうだ。
血のつながりこそなかったが、優しく頼もしい彼のことを実の兄のように慕っていた。

あるとき、彼を養子に迎えたいという者が神殿を訪れた。
高貴な身なりのその大人は、自分の跡取りとして彼を育てたいと言っていた。
同席していた彼は何を言うでもなく、大人たちの会話に淡々と耳を傾けては、ときどき頷いていた。
私は子どもながらに、彼との日々が間もなく終わりを迎えることを悟り、深く落ち込んだ。
生まれて初めて知った”悲しみ”は、同時に私のなかに”苦しみ”と”恋しさ”を植え付けた。

もうそのころのことはおぼろげだが、悲しみは時とともにいつしか”懐かしい思い出”にすり替えられてしまったけれど、歳月を経てもなお、私の記憶のなかに留まり続けている。
まるで、昨日のことのごとく鮮明に想起させるほどに。

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ふと何かの気配を感じ、まどろんでいた意識がはっきりとしてくる。
ベッド脇の柔らかな灯火が寝ぼけ目には眩しく、辺りの暗さからもまだ夜が明けていないことを悟る。
布が敷かれただけの固い砂のベッドから身を起こすと、長く砂漠を歩いてきた体の節々がギシギシと悲鳴を上げる。
痛みに声を漏らしながら腰をさすると、近くからクスクスと笑い声が聞こえ、肩が跳ねる。
声のしたほうへ視線を凝らすと、暗がりから見慣れた紺のリト族が姿を現し、胸をなでおろした。

「リーバル……驚かさないでください」

リーバルはいつになく穏やかな表情を湛えながら「ごめん」と囁くと、私の前に片膝をつき、腰に手を添えてきた。
あんまり自然な動作で触れられたせいで、不覚にもどきりとしてしまう。

「……大丈夫かい?」

「慣れない砂地を長く歩いてきたので、少し体が痛いですが……平気です」

「あんまり無理しちゃ駄目だよ」

「え、ええ……」

なぜだろう。ほんの些細なやり取りのなかに、妙な違和感を覚える。
言葉遣いこそ彼のものだが、何というか、いつもの棘が感じられない。

「そうだ、今日は満月だよ。雲がなくてよく見えるんだ。……寝直す前に、少し見に行かないか?」

「わかりました。少しだけなら……」

たったそれだけのことなのに、リーバルは満足そうに顔を綻ばせた。
思いがけず彼の笑顔が見られて嬉しいはずなのに、私の疑念は裏腹にも膨らんでゆく。

リーバルのあとをついてバルコニーへ出ると、外は深夜にもかかわらず満月の光を照り返す砂のおかげで明るかった。
彼は柵に手をかけると、こちらへ手を差し出してきた。
その手をためらいがちに握り返すと、そっと引かれた手を柵にのせられる。

「落ちないように気をつけるんだ」

「はい……」

普段の彼らしからぬ甘い声色に声がうわずる。
本当にどうしてしまったのだろう。昼間はあんなにギクシャクしてしまったのに。
もしかして、彼なりに私との空気をどうにかしようと努めてくれているのだろうか。
だとしたら私もそれに応えないと。

「リーバル、その……昼間のことですが」

「昼間のこと?」

「はい。ウルボザはああ言ってましたが、私は……あなたのこと、信じています。
無論、無茶をしないかいつも心配で仕方ありません。ですが、あなたはいつも、私の不安を杞憂に終わらせてくれますから。だから……」

「……そう」

私のつたない言葉を、口を挟まずにじっと耳を傾けてくれていたリーバルは、それっきり何を言うでもなく、そっと目を伏せた。
彼が何を浮かべているのかはわからない。けれど、その穏やかな表情からはすでに根に持っていないことが見て取れる。

だからこそ私はそこに、何とも言い知れぬ違和感を覚えた。
その違和感を確かなものに変えるべく、私は覚悟を決める。

「リーバル、少し寒くないですか?昼間の暖気を取り込んでいるとはいえ、砂漠の夜はさすがに堪えます」

「……ああ、ちょっと冷えるね。そろそろ戻ろうか……」

やはり。その言葉に、私は核心に迫る決意を固めた。
リト族のリーバルには、この程度の寒さはわけないはずだからだ。

柵を掴むリーバルの手に自分の手をそっと重ね、強く握る。

「あなた……リーバルではありませんね?」

彼の目を精巧に模した目が、驚愕に見開かれたかと思うと、少しの間を置き、諦念の色を含みつつ細められた。

「……見破られてしまったか」

次の瞬間、リーバルもとい”リーバルに扮した何者か”の姿が瞬く間に消えた。
辺りに目を凝らして探しているうちに、強い力で腕を捻り上げられた。

「痛……っ!」

力を振り絞り、首を捻って背後を振り返ると、白地に赤の紋様ーーイーガ団の目のマークーーが描かれた面が飛び込んできた。
面の目元はひび割れ、黄金色の静かな眼差しが私をまっすぐに捉える。

「あなたが……砂漠の月下さばくのげっか……!?」

「……隠密を得意とするイーガ団の元幹部が、隠れなくその名を知られているとはな。……皮肉なものだ。
だが、姿を見られたからには放っておくことはできない。悪いが、このまま君を連れ去る」

「そうは、させません……!」

抵抗を図ろうと腕に力を込めるが、鍛え抜かれた強い力に叶うはずもなく、片手で易々と両腕を捕らえてしまう。
しまった、と思ったときには、黒い手袋をはめた手に口と鼻を塞がれてしまっていた。

息ができない……。まずい、このままじゃ……!
そのとき、疾風のごとき風が巻き起こったかと思うと、ばさりと鳥が羽ばたくような音とともに大きな影が頭上を過ぎた。
その影は向かいの建物の屋上の柵に舞い降り、こちらに向かって弓をつがえた。

「その子をどこへ連れて行くって?」

大空のように澄み渡る、堂々とした佇まい。その聞き覚えのある声色に、涙がみるみる溜まっていく。

「悪いけど、その子は僕が先にさらった獲物だよ。横取りはいただけないね」

「まさか本人に見つかるとは……」

砂漠の月下は舌打ちをすると、即座に私を解放し、白煙とともに瞬時に姿をくらませた。

「砂漠の月下だ!」

リーバルの指笛を合図に、ゲルドの兵が警鐘とともに大声で敵襲を知らせ始めた。
街の至るところに密かに配備されていた兵やイーガ団たちが、一斉に反撃を開始する。

大勢の声があたり一体にこだますなか、力なく膝から崩れ落ちる私を、向かいから飛び移ってきたリーバルが支える。

「やれやれ、大丈夫かい?」

困ったような、呆れたような顔をしながらも私の体を労わるように確認する彼に、思わず小さく吹き出す。

「お、おい、のん気に笑ってる場合じゃ……」

羽毛の毛羽立つ頬に手を添え、毛並みに沿ってなでると、彼の肩がこわばった。
深くしわの寄る眉間がほぐれ、面映ゆそうに視線を逸らされる。

「それでこそリーバル、ですね」

「うるさいな。何を勝手に納得してるのか知らないけど、眠いなかわざわざ助けに来てやったんだ。……感謝するんだね」

口ではそう言いながらも、リーバルは私の手の甲にそっと白い指を重ね、心地よさそうに目を細めるのだった。

(2032.08.04)

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