聖なる子守唄

プロローグ

正午を過ぎ、昼食を取り終えた剣士たちが城の中庭で剣を振るう音が開いた窓から微かに届く。
幼きころに教わった歌を口ずさみながら、鏡台の前に姿勢を正して座るゼルダの美しい黄金の髪をくしけずる。
終始耳を傾けていたゼルダは、歌が終わると閉じていたまぶたを緩やかに持ち上げ、鏡越しに微笑んだ。

アイは相変わらず歌がお上手ですね。あなたの歌声そのものに癒しの効果があるようだわ」

「お上手なのは姫様のほうですよ。真の癒しの効果をもたらすのは、私の声ではなく神殿で賜ったあの旋律なのですから」

「謙遜しないで。現に私はこうして癒されているのですから」

赤子のころ時の神殿の前で拾われ神職者として育てられてきた私は、数年前に治癒の力が発現した。
癒しの効果はたちどころにハイラル王国に広まった。
あるとき神殿を訪れたハイラル王が神殿への多額の寄付と引き換えに私の身を引き受け、以来、ハイラル城に仕えている。

とはいえ私の仕事はメイドのように多忙ではなく、王のご息女であらせられるゼルダの慰み役として常にお側に控えることのみだ。
他愛のない話をしたり、一緒にお茶をしたり、歌をお聴かせしたり……。
はじめは王がなぜそのようなことのためにあれほどの大枚をはたいたのかわからなかったが、ゼルダから身の上話をうかがっているうちに理解した。
幼少のころに母君を失った彼女は、友と呼べる者もなく、歳が進むにつれ動植物の研究に没頭するようになったという。
外出時には側近のリンクを伴って出かけられるが、いかんせん彼は寡黙すぎる。彼女の話し相手には不相応というわけだ。
そんな矢先、私のうわさを小耳にはさんだ王は、歳の頃も近く同じく母の温もりを知らない境遇の私こそが慰み役として相応しいと踏んだのだろう。
それだけでなく、現状リンク一人で剣と盾の役目を果たせてはいるが、万一の場合には私の治癒の力があれば二人を生かすことができる。そういった予防策としての意味も大きいだろう。

アイ、聞いているのですか?」

つい、考えごとに夢中になっていたらしい。鏡越しに頬を膨らますゼルダと目が合い、申し訳ありません、と苦笑を浮かべた。

「これからあなたに使いを頼みたいのです。城下町の薬屋にこの封書を届けてもらえますか?」

肩越しに封蝋印の押された封筒が差し出される。
櫛を鏡台に置くと、丁重に受け取った。

「かしこまりました。すぐに向かいます」

「よろしく頼みましたよ」

そう言い顔をほころばせた彼女はいつになく嬉しそうな顔だった。また新しい研究材料でも見つけたのだろうか。
結局王の施策は功を成さず、私が慰み役としてお城に上がることになったあとも彼女の研究への熱意は収まることなく、むしろ研究成果を披露する相手ができたことを喜び意欲は増してばかりだ。
一辺倒な彼女に振り回されつつも、好きなことに夢中になっているときの輝かしく生き生きとしたあの笑顔はとても好きだ。

けれど、その草原になびく花のような笑顔を長らく拝めなくなることになろうとは、封書を届けたらすぐ帰還するつもりでいたこのときの私には到底及びもつかなかった。

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薬屋に到着し封書を渡すと、店員の老婆は奥から手のひらほどの小さな巾着を持って戻ってきた。
にこやかに巾着を差し出すのがどうも気になってわけを尋ねると、姫様の粋なはからいだ、と言って封書の中身を見せられた。

“封書を持って来た者に、例のポプリを。日頃の礼だと伝えてください”

「姫様も不器用なお方よのう。あんたへの贈り物じゃ。ありがたく受け取んな」

ゼルダの筆跡に胸を熱くしながら巾着を開くと、乾燥した花や果物の甘い香りが立った。

「ありがとうございます」

「礼ならご本人に伝えることじゃ。嬢ちゃんの帰りを今かいまかと待ちわびておられるじゃろうて」

挨拶を済ませ店から出ようと振り返った私は、窓の外に大きな影が差したのを見逃さなかった。
その影の正体に思考を巡らせているうちに窓一面が橙色に染まり、外から大きな悲鳴が上がった。

何事じゃ……!?とうろたえる声を背に、店から飛び出す。

店の外はすでに火の海にのまれていた。
激しく打たれる警鐘の音が鳴り響き、突然の猛火に驚き逃げ惑う人々が往来を行き交う。

「これは……!」

人ごみに流されそうになりながらかつがつ裏通りに逃げ込んだとき、倒れ伏している者を見つけた。
急いで駆け寄ると、濃い茶色の羽毛に覆われたリト族であることに気づく。
すでに息絶えているかに思われたが、薄く開かれたくちばしから辛うじて吐息が漏れていることに気づき声をかける。

「大丈夫ですか!?一体何が……」

肩に触れようとした手は大きな翼によって払われてしまった。
固く閉ざされていた目が薄く開かれ、黄金色の目が忌々しそうに歪められる。

「気安く触れるな。人間の分際で……」

その怨嗟はくちばしから吐き出された赤黒いものにより最後まで紡がれることはなかった。
胸に宛てられた片翼の隙間からじわじわと血がにじんでくるのに気づき、このままでは先が長くないことを悟る。

苦し気に上下する胸の上に手を重ねると、焦る気を鎮めそっと口ずさむ。聖なる子守唄を。
私の声に導かれるように、淡い光があたりに浮かび上がり、リト族の胸にのせた私の手に集まる。

若いリト族はその光景を朦朧としながらも見つめていたが、光が収束したころ、驚いた勢いのまま上体を起こした。

「傷が……治っただと……!?」

服の破れたあたりを探って傷がないことを悟るや、彼は私の両肩をがっしりと掴んだ。

「あんた、一体……」

「同胞に何か用かな、お嬢さん?」

頭上から颯爽とした声がかかり、はっと声のした方を見上げる。
もうもうと立ち昇る煙や飛び散る火の粉に紛れ、高い屋根の上に立ちこちらを見下ろす紺色を見つけた。

「リーバル様!」

“リーバル”と呼ばれたそのリト族は、仰々しく後ろ手を組む佇まいこそ澄まし込んではいるが、町を見下ろすその眼差しは人々への侮蔑と血気に満ち、元より鋭い瞳孔をより鋭く感じさせる。
その凛とした赤の奥に潜むエメラルドや翡翠を連想させる輝きはどこか冷めて見えるのに、怒りと憎悪のためか焼き広がる戦火よりも激しく燃えたぎって見えた。

「へえ……あれだけの傷を治せたんだ。これだけの被害のなか敵を利するなんて随分余裕だね。ま、皮肉もほどほどにしといたほうがいいと思うけど……とりあえずわざわざご苦労様、とでも言っておこうか」

声や見た目の印象からしてまだ年若いのだろうか。
人の善意を皮肉と捉えるなんてあなたのほうが余程皮肉屋ではないかと言い返したいが、この火災の原因が彼らにあることを瞬時に理解し、すぐさま立ち去ろうと踵を返す。
しかし、バサリと大きな羽音とともに目の前に降り立った紺に行く手を塞がれる。

「おっと、逃げられちゃ困るんだけど」

「あなたのお仲間の命を救ったんです。それに免じてどうか見逃してください」

鋭利さを損なわずじとりとこちら見下ろす翡翠の目が少しだけ揺らいで見えた。
そこに一抹でも希望を抱いてしまった私は、彼の口から紡がれた言葉に絶望した。

「君、ヒーラーだろ。ちょうどいい、けがの治療ができる人材を探してたところだ。悪いけど一緒に来てもらうよ」

懇願はこの青年の胸には響かなかったらしく、抵抗する間もなく白い指先に腕を絡めとられた。
私の手よりも何倍も大きさのある羽毛の手は、そのしなやかな巨体を浮かせられるだけの力を秘めているだけあり逞しく、簡単に私の手を折ってしまいそうなほどの強い力に痛みが生じる。

「痛い……!」

思わず声を上げると青年はうろたえた様子を見せ、手の力をほんの少しだけ緩めてくれた。

「……大人しく従えば悪いようにはしない」

表情や声色は手厳しさを孕んでいるが、その言葉には微かな思慮が垣間見えた気がした。
後ろ手に手首を縄で縛られながらうかがったその目は、憤りとは別の物悲しさが潜んでいるようにも見えた。

(2021.7.31)

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