天翔ける:記憶編

7. 秘湯の記憶

ヘブラ山の祠の調査のため、入山して数日。
断崖絶壁だらけの道なき道を登り、北のミンフラーの秘湯に着くころには陽が暮れていた。
道中幸いなことに雪はちらつく程度だったが、足場が悪く険しい雪道を長時間歩いたせいだろう。連中の顔にも疲労がありありと浮かんでいる。
僕からすれば故郷であるヘブラは庭のようなものだが、ただの移動ならまだしも、連日道中の魔物との戦闘を交えながらの移動のため、さすがの僕も少し疲労がたまってきている。

自分のことにだけ専念できていればここまではなかっただろう。しかし……この任務には彼女ーーアイーーが参加しているのだ。
本来の使命の裏で、僕は密かに彼女のことを見守っている。

アイと僕の関係は一言で説明するには少々ややこしい。
彼女にとっての僕は厄災討伐にかかわる任務においての仲間、という程度の認識だろう。
それもそのはずだ。姫の付き人である彼女とは接点がほとんどない以上、僕から彼女に声をかけることも、彼女から僕に声をかけることもほとんどないのだから。

けれど、アイが僕に関心がなかろうと僕にとってはそうじゃない。

僕と彼女はどういったわけか、度々互いの記憶を失っているようだ。
僕は都度彼女に関する記憶を失うのみでこれまでの環境や状況に変わりはないが、どうやら彼女は記憶を失うだけでなく、記憶がリセットされるたびにこのハイラルのどこかに転移させられているようだ。
幸いにも今のところ命に別状はない程度で済んではいるものの、けがを負った時間軸もあったようで、人知れず過酷な状況にさらされてきた境遇に胸が痛む。

僕と彼女は記憶を失っても新しい時間軸で再び巡り合った。
リトの村の近辺で出会うこともあれば、今回と同じく彼女がハイラル城に仕え厄災討伐に際し出会うこともあった。
関係性もそのときどきで、旅の仲間であったり、あるいは恋仲にあったり……。

現時間軸において、恋仲にまで発展しその記憶が残っているのは僕のみで、僕を他人のように認識している彼女と僕自身の心情とのギャップに悩んだ。
ならいっそ、ただ見守ることに徹するほうがいい。

そんな僕の内情をもてあそぶかのように、彼女に言い寄ろうとする輩が現れたり、あずかり知らぬところで彼女が不幸な目に遭ったりと、それが一番だと思ってのことがことごとく裏目に出る。
それでもできる限り彼女を守ろうと暗躍してきたつもりが、どうやら気を回しすぎていたらしい。
知らずしらずのうちに僕への想いを募らせていたようで、いつしかアイが僕を意識していることに気づいた。

彼女がまた僕を想い慕ってくれるのは内心嬉しかったが、いくら姿や声が同じでも、僕のことなど何一つとて覚えていない以上もうこれまでの彼女ではないのだ。
この記憶がリセットする現象について説明することで彼女の記憶を復元に至らせられる可能性はあれど、根拠を示すことができないし、妙なことを言うやつだと思われるだろう。
仮に彼女と以前のような関係を取り戻せたとしても、またどうせ記憶を失ってしまうのなら……。

結局、僕は他人のふりをして陰ながら見守り続けることを選んだ。

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「こんな雪山の奥に温泉があるとはなあ!温泉なんてなあてっきりデスマウンテンにしかないもんだと思ってたぜ」

「何言ってんの。温泉くらいヘブラにも数カ所はあるよ」

ダルケルの世間知らずな発言に呆れながらため息交じりにそう突っ込んだが、そこは僕より年を重ねているだけあって大人な彼は、気を悪くしたそぶりを見せもず愉快気に笑った。
豪快な声に耳をおさえ不愉快であることを視線で訴えかけているところに、僕らの会話を聞いていたらしい姫が興味深そうに近づいてきた。
彼女のかたわらに控えるアイは目が合った途端気恥ずかしそうに顔をうつむかせた。
その仕草や表情が記憶のなかの彼女を想起させ、不覚にも胸が高鳴るが、不用意に気持ちを膨らませてもかえって虚しくなるだけだ。

「ここ以外にもほかに温泉があるのですか」

姫の声に我に返り、笑みを繕うことで気を反らす。

「確か、ここから西あたりにゼッカワミの秘湯、南西あたりにクムの秘湯がある。クムは村の連中もたまに使用しているはずだよ」

得意になってそう説明してやると、姫は、まあ!と手を合わせて顔をほころばせた。
アイは僕をじっと見据えぼんやりと話に耳を傾けており、だんだんと言いようのない苛立ちが募る。……人の気も知らないで。

「せっかくですしアイも入ってきてはどうですか。周囲の魔物はもういませんし、リーバルとリンクが交代で寝ずの番を引き受けてくれるとのことなので、安心して浸かれますよ」

姫の言葉にはっとしたアイは、気の抜けたような笑みを浮かべた。

「ありがとうございます、姫様。お言葉に甘えて、お湯をいただきます」

ふと彼女と視線が交わった。けれどその目はやはりすぐに反らされ、もやもやとした気が胸中を占めていく。
彼女たちの声を背に、話を終えたことにしてその場を立ち去った。

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アイが温泉に向かって間もなくのこと。
秘湯の湯と雪のにおいに紛れ、獣のにおいがすることに気づいた。

魔物は一掃したが、セツゲンオオカミの群れが近づいているとは想定外だった。
まずい。このままではアイが危険だ。

すかさず空に舞い上がったのと同じくしてオオカミの遠吠えが耳に届いた。
ちらつく雪の狭間から目を凝らし視線を落とすと、湯けむりの向こうにアイの姿が見えた。
一糸まとわぬ姿に食い入りそうになるが、気を振り払い彼女目掛けて襲い掛かろうとしているオオカミの群れに飛び掛かる。

アイ!!」

思わず強く呼びかけ、一斉に矢を放つ。狙い通り急所を捉え、オオカミたちは矢に倒れた。

「す、すご……!」

惚けていたアイは僕の猛攻に感心したようにそうつぶやいた。
ようやく今の自分の姿を思い出したらしく、慌てて布で前を隠し始めるのが視界の端に映る。……今さら隠したってもう遅い。

「みっ、見ました……?」

図星をつかれ肩が跳ねる。
平静を装って片翼を腰に当てながらもう片方をひらりとかざしてとぼける。
言っておくが、今も一応気を遣って背を向けている。

「何の話だい?」

「……いえ、心当たりがないのならいいです」

彼女の物言いからまだ疑念が残っているのが大いにうかがえ、少しばかりいたずら心が芽生えてくる。

「あいにくだけど、他種族の体を見たところで色欲の情が湧くほど飢えちゃいないよ」

おどけてそう返すと、彼女は戸惑いを隠さず声を上げた。

「や、やっぱり見たんですね!?」

「君、僕の話を聞いてたかい?たとえ話をしただけで、”見た”なんて一言も言ってないはずだけど?」

核心を突かれ動揺しそうになるが、おちょくるようにそう投げ返すことで誤魔化した。

「その……助けてくれてありがとうございます。目にもとまらぬ見事な弓さばきでした」

口ごもりながらも礼とともに僕を褒めるアイに少し浮つきそうになるが、彼女の口から紡がれる言葉遣いが以前のように対等なものでないことに気づいてすぐに気持ちが萎えた。
素直になれない僕は、相変わらずの調子で理屈を述べてしまう。

「……ふん。別に君のためじゃない。ここにセツゲンオオカミの群れがいたから防止策として射止めただけだよ」

黙り込んだ彼女の様子が気になって振り向こうとしてしまうが、彼女がはだかであることを思い出し踏みとどまる。
思ってみれば、記憶をたどっても彼女のはだかを見たのはこれが初めてじゃないか。
湯けむりにぼんやりと紛れる羽毛のない滑らかな肌を思い出し、ごくりと喉が鳴る。
いくら過去の時間軸で想い合う関係だったとはいえ、同族でもないのに何を欲情してるんだ僕は。

足下の岩場に目を落とし、ふとこの下の空洞にアイのためにこっそりと松明を設置しておいたことを思い出す。

「この岩場の下に入ったらどうだい?さっき松明を設置しておいたからさ。ちょうど良い深さだし、雪も凌げるよ」

そう教えてやると、何のためらいもなく空洞のなかへと入っていくのが湯の弾ける音でわかった。おそらく気になっていたのだろう。
空洞のなかが辛うじて覗ける位置に腰を下ろし腰をかがめると、彼女の後頭部が目に入った。

「ここ、穴場ですね……!どうしてほかのみんなには教えてあげなかったんですか?」

まさか勘ぐられるとは思わず息を飲む。
言いあぐねているとアイが唐突に振り返ったので、即座に顔を上げた。

「……あいつらにまで教えたら、各方面から観光客が殺到しそうじゃないか」

咄嗟に出た言葉は納得してもらうにはさすがに苦しいものがあったらしく、彼女は重ねて追求してきた。

「さっき、私がセツゲンオオカミに襲われそうになったとき、私の名前を呼びましたよね。……どうして?」

アイはきっと、この機に僕に近づこうと目論んでいるのだろう。
僕だってできるものならそうしてやりたい。けど、この岩場の隔たり以上の関係を望むべきではないことをどうかわかってほしい。

「……言っただろう?君のためじゃないって。セツゲンオオカミが岩を伝って下りてくると思ったから、注意を促しただけさ」

「そう……ですか」

アイの落胆した声に、ずきりと胸が痛む。

違う。本当はすぐにだって君を抱きしめたいんだ。
胸の奥では心がそう叫んでいるのに、無情にも僕の口は本心とは裏腹に冷ややかな言葉を紡ぐ。

「おや、この僕に何を期待したんだい?」

押し黙ったアイの背には、僕の思惑通り失望の念が見て取れ、自嘲的な笑いが浮かんだ。

「……別に、何も期待してなどいませんよ。結果として助けてもらったことには変わりないので、お礼を言っておきたかっただけです」

「へえ……そう」

淡々とした声に、僕まで黙らせられてしまう。
それっきり沈黙が降りた洞内は時折水の音が反響するだけとなった。

何か言葉をかけなければ、このひとときが終わってしまう。そうわかっているのに、自慢の弁舌はこういうときに限って一向に回らない。
気まずさを感じさせてしまっただろう。そそくさと湯からあがるアイの気配に、やっとの思いで声をかける。

「……冗談だよ」

本心とは裏腹なことを言って傷つけてしまったことへの謝罪を言い含んだつもりだったが、彼女にその意図が伝わるはずもない。
それじゃあ、と返ってきたことに、馬鹿なことを言ったな、と盛大なため息をこぼした。

ひっそりと尻目にうかがったアイの背中は、気の迷いでも何でもなく、やはりきれいだと心から感じた。

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「お疲れ様!どうだった?」

台から上体を起こし装置を外す僕にお約束のように軽いノリで声をかけてきたプルアに対し、普段なら取り澄まして応えていただろう。
しかし、僕のなかで起こった変化は、いつものように取り繕うことを忘れさせるほどに衝撃的なものだった。
それを気づけない彼女ではない。僕の機微を見抜いた彼女は、その張り付けたような笑みを収め研究者の顔になる。

「もしかして……記憶、思い出しちゃった?」

「いや……思い出したというよりは、見せられた、って感覚かな」

思ったことをそのまま口にすると、落胆した様子を見せるものと思っていたが予想外にもプルアは満面の笑みを浮かべた。

「すごいよこれは。結構大きな成果!糸の先っぽを掴めたってことは、あとはひも解いていくだけってことだからね」

まだ実感はないが、プルアの言葉通りなら、僕はもうじき記憶を取り戻せるだろうとのことだ。
けれど、僕のすぐあとに目覚めたアイは、やはり今回も成果を得られなかったようで、手放しで喜べはしなかった。

ふと、ミンフラーの秘湯の記憶が脳裏によぎる。
あのときと今とでは状況は大きく違うが、もし彼女がこのまま記憶を取り戻せなかったら?
僕は、過去の記憶を失ったままの彼女を受け入れることができるのだろうか。

いや……思い出すんだ。僕はあのとき彼女に誓ったはずだ。

たとえ過去のアイと別人だとしても、関係が完全に帳消しにされても。
別の因果によって結びつき、また互いを好きになる、って。

「ほんと、馬鹿なことをしでかしたね……あのときの僕は」

「何か言ったー?」

アイに問診を行っていたプルアは僕のつぶやきに振り向いた。
いや、と濁し、視線を上げると、彼女のかたわらで僕を見つめるアイと目が合う。
結果を受けて少し沈んだ表情のアイは、記憶のなかで僕の言葉に失望していた彼女を彷彿とさせ、胸の奥が痛んだ。

「そう焦る必要はないさ。ゆっくり思い出せばいいんだ」

そう声をかけると、アイはほっとしたように笑みを浮かべ、小さくうなずいた。

「ありがとう、リーバル」

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<記憶に関する研究:第7回目>

ついにリーバルが記憶をひも解く糸口をつかんだ。
先に成果が表れるのは彼のほうであろうことは初回の問診において予見していたが、やはりその通りになった。

しかし肝心のアイは少しずつ記憶の片鱗を垣間見せつつあるものの、記憶のなかの光景を細部まで言葉にできるリーバルに対しまだまだといったところだ。
もしかすると、彼女の言うように、リーバルはこの世界で生まれたれっきとしたハイラルの住人であるのに対し、アイが元は別の世界の人間であったことが大きく関係しているのだろうか。

少々厄介だが、このまま終わらせはしない。
今回の実験でリーバルが過去の情景を脳裏に浮かべられるようになったことが、彼女に良い作用をもたらす可能性にかけるとする。

プルア

(2021.7.26)

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