ここを最後に訪れたのは、いつのことだろうか。
……いや、”この世界線”においては、初めてのことなのだろう。
けれど、僕は……”僕とアイ“は、以前ここを訪れたことを鮮明に記憶している。
誰が生み出したのか、何の目的で生み出したのかも語られず、人々の歴史から忘れ去られてもなおここに佇み続ける旧跡の母神を見上げ、声を張る。
「女神!聞こえるかい?」
しかし、僕の呼びかけに返る声はない。
「女神様」
僕のかたわらでアイも声をかけるが、女神像は相変わらず虚空を見つめ薄っすらと微笑みを湛えるだけだ。
「私たちの願いを聞き入れるために、力を使い果たしてしまったんじゃ……」
彼女の憶測は妙に納得のいくものだった。なるほどね、と腕を組む。
疎通が図れないのであれば、長居する意味はない。
さっさと後にしようとこの場に背を向ける僕と違い、アイは律義だ。
わざわざ礼にと携えたしのび草とフロドラの鱗を女神像の足元に供え、両の手を固めて祈りを捧げている。
そんなことをしてもこの像には届かないかもしれないのにだ。
幾重に時を超えようとも変わらぬ彼女に、何だか懐かしいような、心地の良いような感覚を覚え、自然と笑みが浮かぶ。
「お待たせ。じゃあ、行こっか……」
アイの背後の光景に目を見張る。
沈黙を貫いていた女神像が、淡い光を発し始めたのだ。
僕の視線を辿って像を仰いだアイも、驚きの表情を浮かべている。
女神の言葉は、やはり僕らには届かない。
けれど、神殿をあとにするそのときまで発され続けていたその光は、まるで僕らの……運命をも超えた再会を祝福しているようだった。
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新緑の風が吹き渡る平原。
そのシンボルたる一本木の下に、至極見慣れた顔ぶれがそろっていた。
豪快な笑いで場を和ますゴロン。
どこか緊張した面持ちでソワソワと落ち着きのない幼きゾーラ。
そんな彼女を落ち着かせようと、少し成長したらしい彼女の弟の話で気を散らしてあげようとするゲルド。
今日ばかりはいつもの白衣を脱ぎ、フォーマルな服に袖を通してきた研究所のシーカー族たち。
彼女たちの足元で、久方ぶりの再会を喜ぶように触手を一本掲げる小型のガーディアン。
そんな彼らの様子を少し離れたところでぼんやりと眺める、相変わらず真意の読めない退魔の騎士。
僕はと言うと、彼らの様子を何往復か眺め、そろそろ飽きてきたころだ。
こうしてただ待つだけの時間は苦痛でしかない。けれど、今日このときだけは、辛抱するほかない。
別に、退屈なわけじゃない。けれど、僕の鼓動は焦りとも苛立ちともわからない、複雑な心境の元に強く脈を打っている。
何やらハイリア人たちには、新郎が挙式までに新婦の花嫁姿を目にすると縁起が悪いなんてジンクスがあるのだとか。……くだらない。
そんなわけで、この巨木の後ろで姫とポストハウスの主人に助けられ身支度を進めるアイのご登場を長らく待っている。
何度目かわからない深いため息をつき、後ろ手に組んだ手を組みかえる。
「リーバルでも緊張することあるんだ」
突然かけられた声に、はっと視線を送る。
「……へぇ、まさか君から話しかけてくるなんてね」
明日は槍の雨が降ったりして、と続けると、退魔の騎士……もといリンクは、苦笑いを浮かべるように口角を引きつらせた。
初対面のころは表情筋の一つも動かせやしないのかというほどに無表情を貫いていた彼だが、ここ最近はほんの少しだが表情が読めるくらいにはなってきた。
だが、こうして率先して自ら話しかけてくるなんて。めでたい日には珍しいこともあるもんだ、と思わずこぼれた笑みを指先で隠す。
「……それで。僕に何か話でもあるんじゃないの?」
そう促すと、彼はやけにばつが悪そうな顔を浮かべた。おいおい、今日は本当にどうした?
視線をさ迷わせ指で頬を掻く彼の物珍しい姿に、こっちまで戸惑いそうになる。
しばらくだんまりを決め込んでいたかと思うと、リンクは覚悟を決めたように視線を上げ、どこか真剣な眼差しで僕の目を見つめた。
「……結婚おめでとう」
ぎこちない。けれど、確かに浮かべられた笑みに、胸の奥から何かが込み上げてくる。
「無事にこの日を迎えられて本当に良かった。二人も、みんなもすごく幸せそうだ」
「……リンク」
こういうとき、どう返せばいい?素直にありがとう、とでも言うべきなのか。
……いいや、そんなの柄じゃない。こいつは多分僕が礼を述べたところで冷やかしたりはしないだろうが、多分ちょっと驚きはするだろう。
そういう反応なら見てみたい。けど、僕らのそういう展開を客観的に浮かべただけで背筋がぞわっとする。
そんなわけで、やはり僕はこんな日であろうと”普段通り”を装ってしまうのだった。
「君がそんなことまで言うようになるなんて……心底驚いたよ。まさか、どこかで頭でもぶつけたりしてないよね?」
「……リーバルは、どこまで行ってもリーバルだね」
思わず茶化してしまった僕に、リンクは呆れたように腕を組む。見透かされたような気になり、眉間に力が入る。
結局いつも通り互いを睨む展開になってしまったが、先に降参したのは彼の方だった。
肩をすくめ、ぶっきらぼうに片手を差し出される。
「リーバルは何かと俺を邪険に扱うけど、俺は君のこと何とも思ってないから。……また、手合わせならいつでも受けて立つよ」
潔さに圧倒され、思考が固まる。思わず手を差し出すのが遅れてしまった。
「……ああ、望むところさ」
おもむろに指先を伸ばし、僕よりもずっと小さな手を固く握る。小さくとも、この世界を”二度も”窮地から救った勇敢な手だ。
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「皆さん、大変お待たせしました!」
巨木の陰から姫が紅潮させた顔を覗かせる。
ずいぶん手間取っていたようだが、ようやく準備が整ったようだ。
羽毛の下で、手のひらにじんわりと汗が滲んでいくのがわかる。
バーチ平原の豊かな緑に映える、まばゆいほどの白。
細やかな紋様や透かしの入ったドレスを身にまとうアイの姿に、皆一様に目を奪われる。
もう、何度願ったかわからない。
待ち焦がれたこのワンシーンを、ようやくこの目に焼き付けることができる。
皆の祝福に感極まってか涙をあふれさせる、幸せそうなアイの晴れ姿。
苦しいほどに胸が詰まって、思わず彼女を抱きしめていた。
「リーバル、ドレスが……!」
皆の冷やかしにおろおろとはにかむアイ。
そんなこと構いやしない。ここに集まる連中にとっては、戦友の祝いの場程度だろう。
だけど、僕らにとっては。僕たち二人にとっては、何度も目にしては遠ざかってきたゴールラインを、ようやく超えた瞬間だ。
この色を、香りを、景色を五感に染みこませ、記憶にしっかりと書き込む。
今度こそ、絶対に忘れない。忘れさせやしない。
ひとしきり喜びを噛みしめ、ついに彼女と目を合わせる。
ベール越しでも潤んで見える彼女の瞳。悲しみの色は一切なく、少しの恥じらいと、喜びに満ちあふれている。
それに安堵し、そっとベールをとった。
タイミングを見計らったように風がベールをさらい、天高く巻き上げてゆく。
風になびく髪を手で押さえながら、アイは微笑む。
「リーバル、愛してる。これまでも、これからも……ずっと」
彼女の言葉に「僕も」と口にしかけた言葉が喉でつっかえた。
こういうときくらい気の利いた言葉の一つでも言えたら。なんて思うが、連中の視線を一身に浴びている現状を思い出す。
僕の言葉を待つ彼女に笑みを返すと、色づいた頬に指をかけ、反対の頬にそっと口付けた。
巻き起こる歓声に紛れ、彼女の耳元にくちばしを寄せる。
「アイ……。僕も、君を愛してる」
姫が、手にした籠から花びらを掴み取り、宙に放った。
風に乗り舞い上がった花びらは、たちまち高くのぼり、ハイラルの中空をたゆたうベールを彩るようにはらはらと煌いている。
(2024.4.6)