白んだ視界が晴れると、そこは空の上だった。
ひんやりと肌寒い風が、私の髪をすくい上げ、いくつもの薄い雲がそばを通り抜けてゆく。
目下には、緑色の草原が広がっている。
ハイラル平原だろうか。
しかし、ハイラル城はここよりも少し離れた川向こうに位置しており、そのさらに遠くに平原が見えることから、どうやらここはハイラル平原ではないようだ。
知らない場所のはずなのに、ひどく懐かしい感じがするのはなぜだろう。
そのとき、ばさりと、”その人”は羽ばたいた。
私は今、誰かの背に乗って飛んでいる。
喉元まで出かかっているのに、その名が紡げない。
視界が再び白一色に染まり、まばゆさにたまらず目を閉じる。
まぶたの裏に感じる光が弱まったとき、恐るおそる目を開いてみた。
頭上から、はらり、はらりと、薄く色づいた花弁が腕に、手のひらに、舞い落ちてきた。
ゆっくりと見上げる。
デクの樹ほどの大樹ではないが、長い年月そこに立つであろう大木が、満開の花を開かせ、佇んでいる。
<ーー ……ーー>
名前をささやかれたような気がして、はっととなりを見上げる。
そよ風に揺らめく、四つの三つ編み。
宵闇の青みがかった空を思わす、紺色の翼。
その眼孔の鋭さを現したような赤と、その奥に秘められた穏やかさを表すような、翡翠の輝き。
その目が真っすぐに私を見据え、ゆったりとまばたきを繰り返す。
<ーーアイ……ーー>
その黄色いくちばしが、今度は、はっきりと名前を紡ぐ。
紺に差す白い指先が、そっと、私の頬をなでる。
優しく細められた翡翠が、少しずつ、少しずつ近づいてくる。
それに応えるように、そっとまぶたを下ろした。
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パチパチ……と小さく弾けるような音に、まどろんでいた意識がゆっくりと持ち上がる。
積んだわらに麻の布をかけただけの、簡素なベッド。
同じく麻の布袋にわらを詰めただけの長い枕の向かいで、すやすやと寝息を立てているミファー。
そっか……。
昨晩、ミファーからこっそり恋の話を聞いて、そのあととりとめもない話をちょっとして、そのうちに眠っちゃったんだっけ……。
ミファーは、リンクが好きなんだなあ。
ただの幼なじみだという割にはよくリンクの話をするもんだから、何となくそんな気はしていたけれど。
引っ込み思案で、奥ゆかしい彼女のことだ。
この様子だと、もう何年もリンクのことを一途に慕い、その想いを胸の内に秘め続けているのだろう。
私は、何年も自分の想いを秘め続けるなんて、できるのだろうか。
彼への想いを、秘め続けることなんて……。
桜の花弁が舞い落ちるなか、私を見つめる彼の姿が思い起こされる。
あのあとの情景までがまざまざと浮かび、顔がだんだん熱くなってきて、がばっと身を起こした。
あれは、夢だ。現実じゃない。
そのはずなのに、なぜ、既視感を覚えるのだろう。
見たこともない風景のはずなのに、どうして……。
バクバクとなる心音をおさめようと胸にこぶしをあてて深呼吸をし、かさりと、わらのベッドから抜け出した。
トーガとマフラーをまとい、テントの入り口にかけられた布をめくって外へ出ると、キンキンに冷えた空気に混ざり、暖気が漂ってくる。
焚き火にあたりながら、片膝をついているリンクを見つけた。
彼はくべたばかりの薪を火かき棒で押し込むと、赤く染まった指先をあたためるように息を吹きかけ、手をこすり合わせている。
そっと近づいていくと、彼は私に気がつき、無表情のまま、眉を少しだけ上げた。
「……まだ起きてたの?」
頬や鼻が赤らんだ顔。
ずっと火の番をしていてくれたのだろうか。
「ううん、今起きたところ。
……ごめんね。寒かったでしょう」
リンクは微かに目を見開くと、ほんの少しだけ、目尻を下げたような気がした。
「……みんな、雪原をずっと歩き通して、疲れているようだったから」
「リンクは優しいね。でも、あんまり無理しないで。
あなたに倒れられでもしたら、それこそ国の一大事だから」
冗談めかして言ったつもりだが、彼は目を伏せ、焚き火に視線を戻した。
「……ありがとう」
つぶやかれたその言葉に、どのような感情が込められているのか、私には計り知れない。
彼と私とでは、背負うものの重みがあまりにも違いすぎるのだ。
「リンクは、子どものころから騎士としての訓練を受けてきたんだよね。
その……つらくはなかった?」
何と言葉をかけたらいいのかわからず、けれどこのまま立ち去るわけにもゆかず、彼について知っている唯一のことを何とか引き出した。
言ってから踏み込んで良かったものか悩んだが、リンクは、こくりとうなずいてくれた。
「つらかったこともある。
けど、常にみんなの手本であるようにと父に言い聞かせられて育ったから……」
「厳しいお父様だったんだね」
リンクは、後ろ首をかくと、困ったように顔をしかめた。
そして、真っすぐな眼差しでくゆる火を見つめた。
「……でも、今は、この役目を誇りに思ってる」
彼の青い目に映る黄金色の炎は、彼のなかの決意を表しているようで。
彼には、彼らには、遠く及ばないけれど。
私も彼のように、常に邁進し続けなくては。
心のなかで、固く誓った。
「そういえば……叙任式の前、その……」
ふと、気になっていたことを確かめたくなって、言葉を紡ぎだそうとするが、急に小恥ずかしくなって、尻すぼみになる。
「叙任式……?」
リンクに食い入るように見つめられ、目を反らす。
そのまま、一息に言い切った。
「リーバルをこちらに向かせたのはどうして……?」
私の問いに当のリンクはきょとんとしていたが、うーんと腕組みをして頭上を見上げたかと思うと、おもむろにこう答えた。
「……もどかしかったから?」
「……は?」
拍子抜けして開けっ放しになってしまった口を、はっとして手で覆う。
「二人を見てるとさ、何だか、こう……。
ごめん、何とも言えない」
リンクは考えあぐねるようになおも「うーん」とうなっている。
ふと、リンクとともに火の番を受けたはずのリーバルの姿が見当たらないことに思い当たる。
「リーバルはどこに?」
「交代のとき、温泉に行くって言ってたけど……。
そういえば、ちょっと遅いな。
悪いけど、声をかけてきてもらえる?」
「……わかった」
リンクから松明を受け取ると、キャンプからすぐの秘湯へ急いだ。
秘湯のかたわらにリンクと兵士たちの手によって設えられた脱衣スペースの木板をノックする。……返事はない。
そっとなかを覗くと、木箱の上に、リーバルが普段身に着けている渦巻き模様が刻まれた胸当てや、髪留めが置かれているのを見つけた。
どうやら、まだ温泉に浸かっているようだ。
「リーバル!そこにいますかー?」
暗がりで見えづらいが、湯煙のなか目を凝らしながら声をかける。
けれど、やはり返事はなく。
もしかして、のぼせてるなんてことはないだろうか。
いつも抜かりない彼のことだ、自己管理は徹底しているし、何だったらコンディションが下がっているのを見たことは一度たりともない。
英傑みんな常に元気そうではあるが、彼は自分の体質と相性の悪いはずのデスマウンテンやゲルド砂漠でも心頭滅却……むしろそよ風でも浴びているかのように涼しい顔をしている。
そのくらいには体力的にも精神的にも強い人だと認識している。
そんな彼が、少し温泉の湯に長く浸かったくらいでのぼせるだろうか。
そうは思ったが、やはり気になってしまって、念のため奥の小滝も確認することにした。
靴を脱いで岩場の上に置くと、スカートの裾をたくし上げ、ざば……と湯に入る。
あたたかい湯が、雪で冷え切った足のつま先からふくらはぎまであたためてゆく。
小滝の横の岩場に備え付けられた松明の炎が揺れているのを確認し、彼がそこにいるのがわかり、岩壁の陰に隠れながらもう一度声をかける。
「リーバル……?」
声が袋小路に反響する。
しかし、やはり彼からの返事はなく。
壁からそっと顔を覗かせてみる。
小滝のとなりの少し開けた石畳の上に、壁に寄りかかるようにしてリーバルが座っていた。
片膝を立て、翼をだらりと両側に垂らし、うつむいている。
普段身に着けている防具が一切取り払われたその姿は、すらっとして見えるが筋肉質で、彼の飛行技術や弓術の無駄のなさが体躯にまで現れているように見える。
人間のそれとは違うが、なぜだか見てはいけないものを見てしまったように感じ、恥ずかしくなる。
「寝てるの……?」
目を当てないようにしながら、そっと近づく。
私が近づいても微動だにしない彼のかたわらに両膝をついて、顔をのぞき込む。
いつも私をあざけるように輝く翡翠は、切れ長の赤によって頑なに閉ざされている。
よく見ると、赤をさらに縁取るように引かれてある白に気づいた。
彼の男らしさを表すようにすっと生えそろう黄色の眉は、いつも眉間に寄せられているのに、今は穏やかに、綺麗に並んでいるだけだ。
几帳面な性格を表すようにきちっと編まれた三つ編みはほどかれ、しなやかな首に沿って肩に流れ落ちている。
普段誰にも見せない無防備な姿に、釘付けになる。
黄色のくちばしに目をやったとき。
そこから吐き出される白い吐息を目の当たりにした私は、夕時、秘湯の脱衣スペースの近くで、私を助けようとして一緒に転んで彼が上に乗ったことを思い出す。
あのまま、そのくちばしが私の唇に触れていたら……。
「!!」
はっと、夢の光景を思い出す。
あの大きな桜の木の下。
彼がーーリーバルがーー、私に……。
おもむろに、トーガのひもをほどくと、肩からするりと取り外した。
自分の体が冷えていくことなんて、この際どうでも良かった。
うつむいたまま、規則的に白い吐息を吐く彼の体に、ふわりとトーガをかける。
そして、そのくちばしの端に、そっと、唇を押し当てた。
夢のなかの光景が、鮮明に浮かび上がる。
大きな翼に頭をそっとなでられながら、唇とくちばしを何度も重ね合わせる。
ほんの少しだけ草木が香る、彼の心の奥底をあらわすような、優しいにおい。
夢のなかでかいだものと同じだ……。
唇を離した私は、閉じていた目を開いて、愕然とした。
赤い縁取りから覗く翡翠が驚いたように大きく見開かれ、食い入るように私を見つめている。
弾けるように立ち上がると、私を注視するリーバルと目を合わせたまま、じりじりと後ずさりし、湯に足が触れたと同時に急いで踵を返した。
岩場に脱ぎそろえておいた靴を引っ掴むと、追い付かれないように無我夢中でキャンプに走る。
「アイ!リーバルは……」
戻ってきた私にリンクが声をかけてきたが、それに応じる余裕はなかった。
テントの裏に駆け込むと、へなへなと全身の力が抜け、地面に這いつくばるように突っ伏した。
雪が額や素足に張り付いてかなりヒリヒリするが、灼けるように熱い体にはこの冷たさがちょうどいい。……むしろ、足りない。
「ばかだ、私は、大ばかだ……!」
やってしまった。
眠っている彼にトーガをかけたら、そのままキャンプに引き返そうと思っていた。
寝顔が見れただけで、十分だった。
それなのに。
欲をかいてあんなことをしてしまったのは、あの夢のせいだ。
この想いは、どうあがいたって、彼に届くはずもないのに。
もはや、完全に膨れ上がってしまった。
もどかしい。切ない。苦しい。
どんな言葉でも言い表せないほどの狂おしい想いが、頭を駆け巡って、目からあふれるものが雪を解かす。
「私のことを好きになってくれたらいいのに……!」
伝えたくても伝えられない想いに胸を引き裂かれながら、私は、何度もこぶしを雪に打ち付けた。
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小滝を流れる水の音が、止まっていた僕の時を再び刻み始める。
アイが去った方向に向けっぱなしだった視線を、自分の体に向ける。
僕の体を包むように、彼女のトーガがかけられている。
トーガから翼を出して手に取ると、ふわりと、彼女の香りがして、どくんと心臓が脈打つ。
驚いたなんてもんじゃない。
一瞬、まだ夢を見ているのかと錯覚した。
けれど、くちばしにかかる白い吐息のぬくもりに、彼女の……あの小さな唇の柔らかさに、揺り起こされたのは事実で。
頬を赤く染め、悲痛に歪められたアイの表情に、何も言葉をかけられなかった。
すぐに後を追うことさえ、できなかった。
彼女は、どんな想いで、僕に口付けたのだろう。
どんな想いで、走り去ったのだろう。
息苦しさに耐え切れず、彼女のトーガをきつく抱きしめ、何度もくちばしを擦りつける。
「アイ……っ」
“好きだ”
一度頭のなかで唱えた言葉は、呪いのように僕の胸を侵食し、無に置き換えていた想いを、強い恋慕へと塗り替えてしまった。
怒り、恥じらい、涙、笑顔。
彼女が僕に向ける表情のすべてが、頭のなかを埋め尽くしてゆく。
腕で目元を抑え、何度も呼吸を繰り返し、平静を保とうとするが、ままならない。
この感情に気づくべきではなかった。
何としてでも、封じ込めておかなくては。
「クソッ……」
耳障りな小滝の音にやり場のない苛立ちを覚えついた悪態も、流れ落ちる水の音に人知れずかき消された。
(2021.4.17)