大丈夫。
何度記憶がリセットされようとも、
そのたびに、出会いをやり直しただろ?
たとえ、
二度とこの瞬間を思い出せなかったとしても、
お互いの記憶も想いもゼロからだとしても、
またきっと引き寄せ合う。
僕は、そうなるって信じるぜ。
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ーー頬に冷たい感触が伝うのを感じ、目を薄く開ける。
何だか、懐かしい夢を見ていた気がする。
遠い記憶のなかで、誰かと何か約束をしていたような……。
頬を拭い、それが涙であることに気づいた。
私、泣いてるの……?
なぜかはわからないが、胸が締めつけられるような想いが心の底からあふれ出し、涙がはらはらと流れて止まらない。
一体どうしてしまったんだろう。
夢が原因だとは思うが、内容をさっぱり思い出せない。
泣くほど悲しい夢でも見たのだろうか。
寝衣の袖で目をゴシゴシこする。
「はあ……寝覚めが悪いなあ」
起き抜けから原因不明な情緒不安定のせいで眠気はすっかり覚めているが、この悶々とした気分を吹き飛ばすべく、外の空気を吸いに出る。
川に囲まれた早朝のハイラル王国は、活気ある昼の町とは様相が異なり、深い朝霧に包まれている。
昼間であればこの袋小路からメインストリートが少し見えるが、今は数軒向こうのバイト先であるポストハウスがかろうじて見える程度だ。
幸い、今日は終日お休みだ。
こんなもやもやする日に仕事じゃなくて良かった。
もちろん仕事は仕事なので、もしシフトが入っていたとしても気持ちは切り替えただろうけれど。
「ああもう、だめだ!
顔でも洗ってすっきりしよ」
ボリボリと頭をかきむしると、部屋に戻り、洗面台へ向かった。
戸棚から新しいタオルを一枚取り出し、蛇口をひねる。
髪や服が濡れるのも構わず、ばしゃばしゃと鬱蒼とした気持ちを打ち払うように顔に水をかけた。
朝ごはんを食べたら、アコーディオンを持って噴水広場に行こう。
こういうときは、弾くに限る。
身支度を整えると、フードを目深にかぶり、アコーディオンを抱えて噴水広場へと足を運ぶ。
朝霧が立ち込める人気のない道は、どこか不思議な空間にいるような錯覚を起こさせる。
噴水広場には当然ながら誰もいない。
もうあと数時間もすれば、そこらにテントが張られ朝市が始まる。
そうすればこの広場にもいつの間にか人が大勢集まり、いつもの活気を取り戻す。
私はなるべく大きな音を立てすぎないように気をつけながら、蛇腹を引いた。
今はあの曲の気分だ。
名前もわからない、いつの間にか知っていた曲。
どこか切ない響きだが、懐かしいような、そっと包み込まれるような、優しいメロディー。
私、この曲をどこで知ったんだろう……?
もしかして、前世の記憶だろうか。
そう、私は前世の記憶の一部や自我を保ったまま、気づけばこの世界にいた。確信はないが、漠然と転生したのではないかと感じている。
元々いた世界は、ハイラルではない。こことは次元さえも異なる、遠い、とにかく遠い場所だ。
残念なことに、前世の記憶の一部を保っているとはいえ、家族や友人、好きだった作品の固有名詞や内容など、過去の自分に関わりの深い記憶は一切覚えていない。
はっきり覚えていることといえば、せいぜい自分の名前と一般常識くらいだろうか。
あとは、ここの生活圏よりも遥かに文明が発展した世界だったことや、生前使っていた文字の読み書きなどはかろうじて覚えている。
ただ、例外もある。それは、音楽に関する記憶だ。
題名も作曲者も思い出せないのに、曲の内容だけピンポイントで根強く覚えているのだ。
さすがに初見で弾くことは難しいけれど、脳内でならオーケストラなど曲の全体を浮かべられるし、一度試した限りだが譜面に書き取ることもできた。
口ずさめる曲の多さにも、新しい曲を思い出すたび常に驚かされる。
生前の私が音楽に何らかのかたちで深く関わっていたのか、それともこの世界に転生したことにより開花した才能なのかはさだかではない。
音楽的な能力が備わっていることに気づいたのは、ポストハウスのとなりにある楽器店にふらりと立ち寄り、たまたまアコーディオンを手に取ったときのこと。
蛇腹の動かし方こそぎこちなかったが、自分の脳内のメロディーと鍵盤を押さえる指が一致したのだ。
それだけでなく、店主に最売出し中だからぜひにと試奏を勧められたトラヴェルソもまた、元々その吹き方を知っていたかのように吹けた。
ほかの楽器についても試させてもらったが、上手く弾けなかったため、とりわけアコーディオンとトラヴェルソの二種と相性が良いようだ。
なぜこのような能力を有しているのか理屈はわからないが、いくら考えても答えは出そうにない。
むしろ、自身の新たな側面や特技を知れることはおもしろいことだと前向きに受け入れることにした。
そんなこんなで不思議に思うことはありつつも、巡り合わせ次第ではこの能力が備わっていることに気づく余裕さえなかったことだろう。
今こそ不自由なく生活を送れるまでに落ち着いているが、それも人との出会いに恵まれたからこそだ。
わけもわからぬままこの世界ーー王家の式典場周辺の森のなかーーで目が覚めてから、ひとまず最初に突き当たった壁は生計を立てることだった。
一文無し、家無しで生き抜けるわけがない。
思い立ったら即行動が私のモットーで良かったと思う。
町に着くと、入り口を入ってすぐのところでポストマンのような恰好をした人がビラ配りをしていた。
その人に声をかけ、バイトを募集していないか尋ねたところ、なんとその人こそがポストハウスのご主人で。
ご主人がまたとても親切かつ気さくな人で、あっという間に仕事と住まいを手に入れた。
だが、雇われてすぐ問題点が浮上した。
私はこの世界の文字の読み書きができない。
バイトとして雇われてからその必要性に気づき、主人には自分が文盲であると偽った。
まあ、実際ハイラルの文字は読み書きできないので、あながち嘘ではないかもしれないけれど。
下町には案外そういう人が多いらしく、対して問題とは思われなかった。
非常に心苦しいが、今はこの国の識字率が高くないことにただ感謝するしかない。
店主は気を利かせて私を街頭のビラ配りに当たらせてくれるが、ほかにも仕事は山ほどあるため、ずっとそればかりをしているわけにもいかず。
郵便のバイトをするにあたり人名くらいは読めないと不便なので、店主に迷惑をかけながら少しずつ覚えていった。
さすがに書くのはまだ難しいが、ここで暮らし始めて早数か月、多少文字を読めるようにはなってきた。
バイトが長続きしたおかげで、アコーディオンとトラヴェルソを購入することができ、余暇活動として音楽活動を始めるまでに至った。
ここに来てからの生活を思い出しながら曲を弾き終えたとき、私が弾いた曲と同じメロディーが聴こえてきた。
そちらを見やった私は、いろんな意味でぎょっとした。
「殿下!」
つややかな金色の長い髪に、凛とした深いグリーンの目の少女がそばに立ちすくんでいた。
お目にかかったのは初めてのことだが”殿下”と呼ばれたことからハイラル王国の王女ゼルダであると気づきすかさず立ち上がる。
どこかからの帰りだろうか、その顔は少し青くやつれているように見えた。
彼女の後ろには甲冑に身を包む騎士が二人と、もう一人ブロンドの髪を一つに束ねた騎士が控えている。
その足元には、節足動物のような足が生えた白い卵型のロボットが控えており、青い目でこちらを見上げている。
先ほど私が弾いたのと同じメロディーーー厳密にはキーが違ってはいたがーーはどうやらこのロボットが発したものらしい。
ブロンド髪の兵士は無言のまま、ゼルダと私を交互に見て不思議そうな表情を浮かべている。
こんな一般庶民の目の前に、唐突に高貴な身分の方が現れたことに加え、生まれて初めて目にするロボット。
前世の人生経験を踏まえてもあり得なかったできごとが一度に起こったことで、私の頭はパンク寸前だ。
そんな私の内情を知らぬゼルダは、おもむろにこちらに近づいてくると、手に巻いていた包帯を私の目の前で外しだした。
血が滲んだガーゼの下から、透き通るように白い肌が覗く。
「あなたが先ほど弾いていたあの曲は……?」
突然話しかけられ驚くが、こわごわと答える。
「曲名は存じ上げません。ですが、昔から知っていて……」
「そうですか……もしかすると、あなたは……」
ゼルダは私の言葉に言い淀むと、あごに手を当てて考え込み始めた。
ふと背後を振り返り、兵士たちに声をかける。
「あなたたち、先の魔物との戦いでけがをしていましたね。
この者の前で傷を見せなさい」
兵士たちは甲冑の下で戸惑いを浮かべながらも、姫の言葉に従う。
再び目の前で傷を見せられ、今度こそ動揺する。
け、結構グロい……。
片方の兵士はかすり傷のようだったが、もう一方の腕には何か鋭いもので切り裂かれたような深い傷がついている。
「先ほどの曲をもう一度聴かせもらえませんか?」
物言いこそ優しいが、その表情はどこか確信めいたように真剣そのものだ。
一国の姫の要望にノーとはとても言えず、言われるがままもう一度先ほどの曲を奏でる。
すると、兵士の傷口がみるみるふさがっていくではないか。
これにはさすがの私も驚きを隠せず、思わず、すごい……!と感嘆の声を上げた。
「自覚がなかったのですね。
けがを癒す能力を持つ人には出会ったことがありますが、音楽を奏でることでけがを癒す人を、私は初めて見ました。
もしかすると、あなたにはヒーラーの素質があるのかもしれません」
「ですが……これまでにも何度もこの曲を弾いたことがありますが、そんなことは一度も。
それに、私の能力ではなく、この曲や楽器自体がその効力を持っているのかもしれないですし」
「そんなことは今ここで確かめればわかることです。
リンク、あなたアコーディオンの経験は?」
“リンク”と呼ばれたブロンドの兵士は、胸元で手を挙げると、ぶんぶんと首を振った。
「……構いません、弾いてみせてください」
ゼルダは少しむすっとしたような顔になり、リンクに強要する。
一国の王女が国民の前でそんな様子でいいのかと胸中つっこむ。
「そのアコーディオン、お借りしても?」
「あっ、はい!どうぞ……」
肩からアコーディオンを下ろすと、ゼルダがリンクに勧めるように手をこちらに向ける。
指示通りこちらに歩み寄ってきたリンクにアコーディオンを渡し弾き方を教えると、彼は私の教えた通りあっさりと弾いて見せた。
多少ぎこちなさはあるが初めてでここまでできるとは。
リンクがかすり傷の兵士に先ほどの曲を聴かせる。
するとやはりゼルダの目論見通り、リンクが同じ曲を弾いた場合には何も起こらなかった。
もう一度私が弾いてみせると、兵士の傷はきれいに治ってしまった。
「決まりですね」
ゼルダは嬉々としてそう言うと、私に向き直りこう提案してきた。
「今、付き添いのヒーラーを探していたところなのです。
このところ魔物が活発になり始めているのですが、薬の常備だけでは到底間に合わず……。
どうか、あなたの力をお貸しいただけませんか?」
あまりに唐突な申し出にさすがに困惑した。
王家直々の申し出でお役目に就けるなどこんなに光栄な話はない。
だが、私には城下町での生活があるのだ。バイトもあるし、自分の住まいもある。この話を引き受けたならそれらを手放すことになるだろう。
ポストハウスのご主人には何と説明すれば良いのやら……。
思い悩んでいると、ゼルダは加えて条件を提示してきた。
「急いで決断せずとも構いません。我々の旅路に危険は付き物ですから。
翌週、ヘブラのリトの村というところへ用向きでうかがうことになっています。
明後日、使いの者を寄越しますので、ひとまずはそれに同行していただけるかお返事をいただけますか?」
「……かしこまりました。検討いたします」
そう答えるとゼルダは二、三言挨拶を済ませ、兵を引き連れて城に去って行った。
去り際リンクから会釈され、私もそれに応じた。終始無言だったけど、何だか雰囲気のある青年だったなあ。
まさかこの早朝のできごとが今後人生の分岐点になろうとは、去り行く面々をぽかんと見送る私には知る由もなかった。
(2021.3.7)