耳をつんざくような音に、肩がびくりと跳ねあがる。
角笛よりもけたたましく耳障りなその音を響かせたそれは、僕の足元よりもずっと下の谷間……いや、建造物と思わしきものがずらりと建ち並ぶあいだを、引かれた線に沿って真っすぐに、あるいは途中で曲がり建造物のあいだに入り込み、不規則に移動していく。
側面はガラスのように透明なもので覆われ、よく見るとなかには人間がいることがうかがえる。あれは人間を運ぶものなのだろうか……?
理解が追い付かないまま、馬が駈歩や襲歩で走る程度のスピードで走り去っていくそれをただながめているうちに、ぱっと唐突に景色が移り変わった。
薄紅色の小さな花びらが小雨のようにちらちらと舞い落ちては、石を塗り固めたような黒い地面を色鮮やかに染め変えていく。
コログの森の主・デクの樹に比べると樹齢は短いようだが、僕が生きられるよりもずっと長い歳月そこに立ち続けているのだろう。
道の両側に立ち並び果てまで続く様は、さながら玉座の間に控える側近のようで、その佇まいは優美だがどこかおごそかにも感じられる。
このなかを悠然と飛んで抜けたい想いはあれど、僕はあえて翼を広げなかった。
上空から見ても見事な眺めだろうが、この花木の美しさは下から見上げてこそだ。
時折強風にあおられて梢がなびき、小鳥の群れのように空に舞っては、やがて地面の模様の一つになった。
「えっ……リーバル……!?」
親しみのある声に振り返れば、どこからともなく現れたアイが驚いたような顔で僕を見上げていた。
あまりに唐突で、ヘブラでリンクとの一騎打ちの最中、僕の目の前に突然現れたあの日のことを思い出す。
僕よりずっと弱いこの子に、まさか2回も不覚を取られるとは。
「君は、僕の目の前に急に現れる趣味でもあるのかい?」
「そんな趣味あるわけないじゃないですか……しかも今回は私の意思じゃないですから」
僕の冗談にアイはおかしそうに笑う。
彼女の意思でこの場に来たわけではないということも何となく想像がついていた。
先ほどまで僕も違う風景の中にいて、唐突にこの桜並木の景色のなかに放り込まれたのだから。
この世界に降り立った瞬間からすでに胸の中に定まっていた確信を口にする。
「ここは、君がいた世界、なんだろ?」
アイは辺りを見回すと、少し気恥ずかしそうにうなずいた。
「……地名までは覚えていませんが、見たことがある風景だと記憶しています」
僕とアイは、王立古代研究所のプルアとロベリーの元で、日にちが変わっていなければ今日、記憶の装置でそれぞれの記憶のなかを垣間見るはずだった。
しかし、どうしたわけか、僕は今アイと一緒に彼女の記憶のなかにいるようだ。
まあ、大方装置の故障かプルアたちのミスにによるものだろう。
それにしても、ここまで現実と差異がないほど鮮明な情景を目の当たりにすることになるとは予想外だった。
景色や色、暖気を含んだ風の香りや地面の感触、地を這う虫や鳥のさえずり、人々の顔つきや話し声に至るまで、事細かに再現されている。
そのなかで僕らだけが、まるで空気に溶け込んでしまったかのように誰の目にも止まらない。妙な感覚だ。
「世の中、ほんとに何が起こるかわからないものですね。こんな形でも、もう一度この場所に立つ日が来るなんて。
記憶のなかの景色だから、実際の場所に存在しているわけじゃないでしょうけれど」
そう言ったアイの表情は少しだけ寂しそうに見えたが、深く吸った息を吐き出すとともに開かれた目は、何だかすっきりとして見えた。
「……この景色をリーバルと一緒に見られるなんて、夢みたい」
花吹雪をまとう風がアイの髪をさらい、彼女の丸い小さな耳があらわになる。
それを手で押さえようとする仕草に目を奪われているうちに、彼女が振り返ったので、気取られないように顔を反らした。
「記憶の研究を決意したときは、漠然と思い出せたらいいなあなんて思っていました。
けど元いた世界のことを思い出したいってことは、戻りたいとまでは思ってなくても、やっぱり少しでも未練があるのかな、なんて思い始めて。
まあ、私の記憶が正しいのなら、この世界での生はとっくに終えているはずなので、戻りたくても戻れやしないんですけど……」
アイはさらりとそう言って退けるが、その言葉に僕の胸はちくりと痛んだ。
一度死を迎えたことを覚えているというのは、一体どんな感覚なのだろう。
近しい人のことも何も覚えていない状態で、自分の名と前世の世界の記憶だけがぼんやりと残ったまま放り出されて。
彼女が僕を窮地から救ってくれたとき、彼女は僕が自分と同じようにハイラルから放り出されることを想像しただろうか。
一度死を迎えたことを覚えているからこそ、僕が目の前でいなくなろうとしたとき、死をより怖いものだと感じさせやしなかっただろうか。
「けど、ここに来て、そうじゃないんだってようやく気づきました」
吹っ切れたような彼女の言葉に、僕ははっと顔を上げる。
「あなたに、本当の私をほんの一部でも知ってほしかったんだと思います。どんな世界から来た、何者なのかを」
アイはとても穏やかな顔をしていた。
彼女の真意は計り知れない。けれど、少なからず理解できたこと。彼女は、もうハイラルの人間なのだ。
たとえ前世の世界に未練があったとしても、戻りたい気持ちがわずかにでもあったにしても、彼女はハイラルで生きていくことを受け入れているんだろう。
「やっぱり自分のことは何も思い出せないけれど、私が訪れたことがある場所だけでも、直接見せることができて、本当に良かった」
彼女の手が僕の肩に伸び、くっついていた花弁を指でつまみ取ると、手のひらに乗せて差し出してきた。
僕の翼よりもずっとずっと小さな手に、ごくごく小さな花弁を乗せて微笑む彼女は、”可憐”の一言で片づけるにはもったいない。
「リーバルは、桜がよく似合いますね」
それは、君の方だ。
そう伝えたかったが、浮かんだ言葉はやはり喉の奥から出てきてはくれなかった。
いつも通り得意げな笑みを浮かべることしかできない僕に、それでも彼女はとても満足そうに笑っている。
無性に抱き締めたくなってアイの腕を引き寄せたとき、彼女の驚きに満ちた表情を最後に、視界は、闇夜のなか灯火を吹き消した部屋のように黒く塗りつぶされた。
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「リーバル!わかるー?起きなさーい!!」
不快な金切り声に、まどろみのふちから意識を一気に引き上げられた。
うっすらと開いた目に、青白い灯りが差し込み、目を細めながら翼で遮る。
「おおっ!リーバルが目覚めたのかっ!?」
底抜けに明るい声。ロベリーか……。
「リーバル……」
今一番聞きたかった柔らかな声に、考えるよりも先に体が動いていた。
がばりと身を起こした僕は、その勢いのまま額を強打した。
どうやら寝台のかたわらで僕をのぞき込むように見守っていたらしいアイの顔に激突してしまったようだ。
ぼやけていた視界がクリアになると、まず呻きながら額を押さえるアイの悶える姿が目に映った。
意識が戻ったばかりだというのに、自業自得だがさっそく脳震とうを起こしかけている。
「アイ、大丈夫!?
ちょっとぉ、リーバル!いきなり動いたら危ないでしょーが!」
「うるさいよ、君……。まだ頭がはっきりしてないんだから、少し声を落としてくれ」
額を押さえながら、今度はゆっくりと起き上がる。
ちらりとうかがったアイは、額をさすりながら目尻に涙を浮かべ、少し気恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「おはようございます、リーバル」
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<記憶に関する研究:第3回目>
今回の実験により、アイが元いた世界と思わしき記憶にアクセスすることに成功した。
だが、その最中、不注意によるミスが発覚した。
装置の出力を上げすぎていたことにより、本来は記憶を抜き出すのみのはずが、彼女自身の意識をその記憶のなかに移行してしまったのである。
同じ装置を身につけていたリーバルにも影響を及ぼし、アイ同様、彼の意識もまた彼女の記憶のなかに移行した。
幸い二人の意識ははっきりしており、記憶のなかにいるという認識はあったようだ。
このハプニングが転じてアイの記憶を取り戻す引き金になるのではと踏んだが、残念ながらそのような結果は及ぼさなかった。
しかし、幸か不幸か、一つの結論を導き出すことにはつながった。
アイが転生したと仮定するならば、どうやら、この世界に召喚されたあとの彼女の魂が保有し続けている記憶に限りアクセスできるようだ。
この仮定が正しければ、アイが転生する前の記憶を取り戻すことは不可能に近いだろう。
そして、アイは恐らく現在の姿のまま、このハイラルに転生というかたちで召喚されたと考えられる。
つまりアイの記憶の空白の期間ーー記憶が途切れている期間ーーこそが、この世界に召喚された時期ということになる。
だか、それが真実だとすると、ハイラル語をなぜ話せるのかという疑問が持ち上がる。
そして、アイとリーバルに共通する夢の記憶にも引っ掛かりを覚える。
矛盾に加え、別の可能性が浮上するのだ。
彼女たちの認識によると、リーバルに神獣の繰り手を委任したときが初対面だ。
だが、夢の記憶のなかではまったく別の出会い方をしたという。
その夢の記憶についてはアイとリーバルの証言を照らし合わせても、不思議なことにつじつまが合う。
二人が口裏を合わせている可能性を考え意地悪な質問を投げかけてもみたが、それでもぴたりと的中したのには驚いた。
こればかりは妄想の域を超えないが、考えられることは一つ。
彼女たちの記憶は、別の時間軸における体験によるものではないだろうか。
テラコが厄災に滅ぼされた世界から時空を移動して現れたことにより、異なる時間軸の存在は明らかだ。
もしこの仮説が正しければ、厄災に滅ぼされた時間軸とは別に、厄災に討ち勝った時間軸が存在するということになる。
仮にそうだとして、どのようにこの世界に召喚されたのか。
おそらく、アイは過去の世界から直接召喚されたわけではなく、元の世界から厄災に討ち勝った別の時間軸に召喚され、そこから現在の時間軸に移行したのではないだろうか。
転生のタイミングまではさすがに判断材料が足りないが、おおむねそのように仮説立てすることはできた。
ただ、現状この説が有力ではあるものの、これにも一つ矛盾がある。
リーバルはこの時間軸で生まれ、これまでの歳月を過ごしているという点だ。
別の時間軸の存在があるとして、元からこの時間軸に存在する彼はなぜアイと記憶を共有することができているのか。
別の時間軸にも、また別のリーバルが存在しているはずなのに。
……解決すべき問題は、まだまだ山積みのようだ。
これまでの仮説がすべて正しければ、アイがハイラルに召喚されて以降の記憶であれば、取り戻すことができるかもしれない。
しかしながら、それには彼女の記憶にノイズをかける、占い師アストルの見せた幻影の除去が不可欠だ。
不本意だが、あの占い師にはこの責任を取らせる必要がありそうだ。
もっとも、憑き物が落ちた今のアストルに過去の過ちを今さら払拭させることが可能かは試してみないことにはわからないが。
プルア
(2021.6.1)