見知らぬ主と書き置きペンパル

8. 夜の城下町へ

意識を取り戻したときには、すでにあたりが暗くなっていた。
覚束ない思考のまま目を擦り視線を上向けた私は、となりでヘッドボードにもたれながら本を読むリーバル様を視界に捉えた途端、緊張が走った。
薄闇のなか、カンテラの灯火に照らし出される彼の横顔。静かにページに落とされたその瞳に色香を感じ、先の燃えたぎるような熱が思い起こされる。
いくらあんなことがあったからって……こんなことを浮かべてしまうなんて、はしたない。
引き上げた毛布に顔をうずめたとき、リーバル様と同じ毛布を共有していることにようやく気づき、思わずあっと声を上げてしまった。
リーバル様は本を持つ手にかかったそれを鬱陶しそうに払い退けようとしたが、私が目覚めたことに気づきはっとした顔でこちらに視線を落としてきた。

気恥ずかしさを押し殺しながら「おはようございます」と呟くと、リーバル様は視線を逸らしながらふん、と鼻を鳴らした。

「やっと起きたか」

そのくちばしに微かに浮かぶ笑みに、胸中を気取られた気がしてまざまざと羞恥が蘇る。
リーバル様は本にしおりを挟むとそれをカンテラのとなりに置き、ヘッドボードから滑り込むようにして横になった。
立てた肩肘に頭を乗せながら覗き込まれる。目元まで引き上げた毛布をしっかり掴み直すが、大きな指に呆気なく毛布を取り払われてしまった。

毛布を払った指が頬に伸ばされ、そっと輪郭をなぞられる。

「身体は……その、平気かい?」

ためらいがちにそう尋ねられ、余計に恥ずかしい。
けれど、こんな率直に気遣いを見せる彼が何だか珍しくて、少しだけ嬉しくなった。

「だ、大丈夫、です。ちょっとお腹が重たいけど……痛みはありません」

相槌を打つでもなく見つめ続けてくる彼の目が、私の本心を探るように細められる。
何かもの言いたげに注がれる眼差しに我慢できず、彼の目元を手のひらで覆った。
「な……何だよ」と私の手を払おうとする彼に「そんなに見つめられると困ってしまいます」と告げると、チッと舌打ちをしてこちらに背を向けてしまった。
こんなことでいじけるなんて、案外子どもっぽい。

彼に悟られないように笑みをこぼし、シーツに流れる三つ編みの一つを手に取る。
毛先をまとめる髪飾りは彼の瞳と同じ翡翠色。よく磨かれたそれにそっと口付けを落とすと途端に想いが込み上げてきて、たまらず彼の背に縋った。

「リーバル様……好きです」

引き締まった彼の背覆う羽毛に指先が食い込む。しなやかに生えそろう羽の一つを取っても美しくて、尊いものに思えて仕方がない。
指先から背中が離れていったと思った瞬間、こちらを振り向いた彼の大きな指先が、私の顎を強引に掴み上げた。
口内にぬるりと差し込まれる彼の舌先。私の舌を誘うように絡められる熱がもどかしい。
切なく細められた瞳はまるで彼の心情を映し出しているようで、燃え滾る炎を思わすその眼差しに胸が苦しくなる。

こんなに満たされるひとときは、もう二度と訪れないのだとしたら。
このまま……時間が止まってしまえばいいのに。

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のろのろと服をまとい終えた私は、衝立の向こうを覗き込んでため息をこぼした。
今度こそ、あのことをちゃんと伝えないといけない。そうしないといけないと思うのに、いざ伝えたときのことを考えるだけで胸がつかえてしまう。
すでに身だしなみを整え終えているリーバル様は、後ろ手を組みながら窓辺に立ち、高く昇る月を眺めている。
今この瞬間彼の姿をこの目に捉えているのは私一人だというのに、その実感を得るほどに、それが失われてしまうことばかりが浮かんで苦しい。

そんな私の浮かない様子を悟ってか、リーバル様は無理に問い正そうとせず、どこかに出かけるか、とだけ提案してくれた。
少し風にあたりたいです、と伝えると、だったらあそこに行ってみるかい?と城下町の物見の塔を指差す。
メインストリートから離れた物見塔までは少し距離がある。
あんなところまでどうやって、と紡ぎかけた言葉は、彼の高笑いにより喉の奥へと押し込められた。

「おいおい……冗談だろ?僕が何者か忘れたなんて言わないだろうね?」

空の支配者……リト族だよ、僕は。
きっぱりと言い切る、その堂々たる佇まい。自信に満ちたその笑みが、私のなかに渦巻く不安を討ち払ってゆく。

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生まれて初めて見下ろしたハイラルは、浮遊感や恐怖心も忘れるくらいに美しかった。
町を点々と灯す家々の明かりはまるで星空のようで、不安に満ちた心が洗われていく気がした。

「見事なもんだろ?」

背中越しに尋ねる彼の目はどこか愉しげで、私も釣られて笑みが浮かぶ。

「……はい!すごく、すごく綺麗……」

徒歩で向かうには遠く感じられた物見塔へは、ものの一瞬で到着してしまった。
リト族の飛行能力を初めて実感するとともに、彼の見てきた世界をもっと知りたい気持ちが膨らむ。
これからも、彼のとなりで同じ景色を見ていたい。

アイ……」

リーバル様の指が私の頬をなで、涙がこぼれてきたことに気づく。

「リーバル様……私……わたし……っ」

何としても伝えないといけないのに。いざ口にしようとすると、涙がそれを遮るようにあふれてしまって、言葉にならない。

「……わかってる。城を離れるんだろ?」

手の甲で頬を拭い彼の顔を必死に見上げると、リーバル様は困ったように笑みを浮かべていた。
いつになく優しい顔つきに胸がぎゅっと締め付けられ、また涙があふれてくる。
こんなときにそんな顔をされたら、ますます気持ちが膨らんでもっと離れたくなくなってしまうのに。
なだめるように頭をなでる手が、愛おしくて憎い。本当に、どこまでもずるい人。

「兵士たちが口々に話してるのを聞いてね。一般兵や近衛兵たちは大勢残るようだが、君たちのような小間使いたちは別だ。その様子だと、メイド長からお達しがあったんだろ?故郷に避難するようにって」

こくん、と頷くと、リーバル様は「だろうね」と含み笑いつつ塔の柵にもたれた。
少し冷たい風が彼の三つ編みをなびかせる。ふう、と一つ息をつくと、風に身を任せるように目を閉ざした。

「君が懸命に伝えようとしてることも何となくわかってたから、打ち明けてくれるのをこれでも待ってやってたんだけどね……。なのに、君があんまり言いづらそうにするからさ。……そんな顔されたんじゃ、さすがにこっちも黙っちゃいられないよ」

静かにささやかれた声に、どきんと胸が脈打つ。
月に背を向ける彼の顔は逆光で陰ってよく見えない。けれど、暗がりのなか微かに光る翡翠の瞳には、私には想像もつかないような大きな覚悟が浮かんでいるように思えた。

「厄災がどの程度のものかなんて想像もつかないけど、恐らくここも戦場になる。……そんな予感がするんだ」

一つゆっくりとまばたきをした彼は、ゆったりとした動作で柵から身を起こすと、私に向き直った。
後ろ手を組んだ彼の目は、今までにないくらい真剣な色を帯びていた。

「悪いことは言わない。早いうちに、ここから非難しろ。……これは、業務命令だ」

冷静にそう告げた彼は”主人”の顔だ。
目の端に残る涙を服の袖で拭うと、真っすぐに向けられるその眼差しに応えるように深く頷く。

「……はい」

「それともう一つ」

私の眼前に突き立てられた人差し指は、何だか懐かしい。
その指が退けられると、ぶっきらぼうな横顔がそこにあった。

「……厄災との戦いが明け次第、ただちに通常業務に復帰するように。わかったら返事」

「……はいっ」

たまらず彼の腰にしがみつく。
狼狽えながら制止する声が頭上からかかるが、今は咎めるような声色さえも愛おしい。

「リーバル様……どうか、ご無事で」

精いっぱいの想いを込めてきつく抱きしめると、リーバル様は私の頭をポンと叩き、大きな翼を広げて私を包み込んだ。
そんなの当然だ、と言わんばかりにすかした笑みを見せた彼は、青き衣を風にはためかせ、頭上に輝く月を見上げた。

「この戦い……必ず終わらせてみせる。期待してて待っていればいいさ」

決意に満ちたその目に迷いはない。

信じて待とう。
月の光に照らされた翡翠の輝きは、自信のない私にそんな覚悟を抱かせてしまうほどに強く、私の心を勇気づける。

(2024.6.2)

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