聖なる子守唄

14. 斜陽に滲む

さっと湯浴みを済ませて自室に戻ると、薄暗い室内に差し込む夕日にようやく緊張が途切れた。窓辺のソファーに身を任せるように沈み込む。
バルコニーへと続く大きな窓。姫様の側近と言えどお仕えする身分の私にはもったいないくらいの上等な部屋だ。
あの日リーバルに連れ去られるまでは毎日自分の手で清めていた室内は、私の不在時も誰かが手入れをしてくれていたらしく、綺麗に掃き清められた床には塵一つ落ちていない。

「やっと帰って来たんだ……」

ぽつりと呟いた言葉は心からほっとしてのものだったが、口にしてみるとどうも釈然としなかった。

リトの村での扱いは最初こそぞんざいなものだった。どうして私がと自分の巡り合わせの悪さを呪いもした。
けれど、村の皆の怒りは私に対して向けられたものではなく、純粋に仲間が受けた仕打ちによるものだと、接するうちに気づいて、それからは自分の境遇は一度忘れ、村のために何かできることをと懸命に励んだ。
そのうちに、いつしか情が芽生えていたのだろう。こんなにも、リトの村が恋しいなんて。

「結局、お別れを言えないままだったなあ。サキさん、今ごろ夕食の用意してるかな……」

より色濃くなった橙色が陽炎のように揺らぎ、滲む。

「そろそろ身支度しないと会食に間に合わないんじゃないのかい?」

背後から突如かかった声に肩が跳ねる。自分一人だと思いすっかり気を抜いていたせいで酷く驚いた。
そんな私をあざけるように笑みを浮かべながら、リーバルは窓辺に立った。
癖なのか、意識的にそうしているのか、相変わらず凛と後ろ手を組む姿は凛々しい。はじめは所作の一つひとつにまで彼の威厳が垣間見えて恐ろしかったはずなのに、いつからこんなに愛おしくなってしまったんだろう。

「リーバル様!いつからそこに……」

「ついさっきだよ。ノックもしたし、声もかけたけど……どうやら感傷に浸ってるみたいだったからさ。ちょっと驚かせてやろうと思ってね」

この気分屋なところには、いつも心をかき乱される。
村を出る前は村人を気遣ってとはいえあんな乱暴な言い草だったくせに、不意に優しい物言いをする。
橙に照らされまろやかな色味に煌めく穏やかな眼差しが、半年間のうちに積み上げられたリトの村での思い出に馳せらせ、驚きで引っ込んだはずの涙がまたじんわりと目を潤ませる。

瞳孔の細められた目に穴が開くほどじっと見つめられ、涙が伝う頬がかっと熱くなる。
手の甲で雫を拭っていた手を絡めとられ、腕を引かれたと思ったときには、彼の両翼に包み込まれていた。
急に立ち上がったせいでうまく体勢を取れず、彼にもたれるようなかたちになってしまっている。
気持ちの高ぶりか、彼の腕の熱によるものか、体が熱くてとろけそうだ。

胸当てに押し付けられた頬が強い鼓動を感じるころ、側頭部にかかる彼の息遣いが震えていることに気づいた。

「……君が好きだ」

驚いて見上げようとした頭はふたたび胸当てに押し付けられてしまった。
わずかな間に見た彼は不貞腐れたような悔しげなようなしかめっ面で、今まさに想いを告げた人の顔とは思えず、思わずくすりと笑みをこぼしてしまった。
途端にがばりと体を離されたかと思うと、咎めるようにきつい視線でにらみ下ろされた。

「ちょっと、何がおかしいんだい?」

「いえ、笑うつもりはなかったんです。その……」

腕組みをしながら顔をしかめる様子さえ何だか愛しくて、目尻に残る涙を拭いながらそっと見上げる。

「言葉にしてくださったことが、嬉しくて」

思うままにそう告げただけだが、彼は喉を詰まらせるように声を漏らすと、狼狽えるように視線をさまよわせ、小さく舌打ちをした。
怒らせてしまったのかと思いきや、白い指先にあごを掬われ、くちばしの側面で頬を擦られた。

「そういう顔は、僕以外にはしないことだ。わかったら返事」

“そういう顔”とはどんな顔なんだ一体。両の頬を押さえたとき、すっかり緩みきった頬に、これか、と気づく。
はい、と応えると、リーバルはほんの少しだけ目尻を下げた。

(2022.2.1)

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