アイが戻ってくるまでのあいだ、久々に日記をつけていた。
とりとめのない一日ではあったが、それでもこんなに充足した日は久しい。
アイの言動を思い出し、思わずくすりと笑みがこぼれる。
ガノンとの戦いが終息を迎え、平和を取り戻してからというもの、単調な日々が続いていたこともあり、いつしか日記をつけることさえしなくなっていた。
パラパラと過去のページをめくって当時のことを振り返ると、あのいけ好かない騎士のことばかりが綴られているのを見つけ、舌打ちする。
「毛布、用意してくれたんだね。ありがとう」
不覚をとった。背後から突如としてかけられた声に肩が跳ねる。
あわてて振り返ると、いつの間にか戻ってきていたアイが不思議そうに僕を見ていた。
「なっ……アイ!?いつからそこにいたんだい!」
「今来たばかりだけど……何してるの?」
そう言いながら僕の背後をのぞき込もうとする。棚を隠すようにしてアイの前に立ちふさがる。
「勝手に見るなよ……!居候させてやるとはいったけど、プライベートにまで干渉していいとは言ってないよ」
そう捲し立てると、アイは納得したような顔になって頭を下げた。
「ごめんなさい!日記を書いてるとは思わなかった。勝手にのぞき見るなんてことしないから、誤解しないで」
あまりに必死に謝られるので、僕も根負けして背を向け、日記を引き出しにしまい込んだ。
念を押すようにこう付け加える。
「いいかい。僕がいないときに勝手に日記を読んだりしたら、怒るからね!」
アイは困ったような顔をし、「はい」としおらしく返事をした。
その顔が半笑いになっているのがちょっと憎らしい。
そして、何かを思い立ったように、部屋の隅に置いていたアイのカバンを探り始めた。
ノートと羽ペンがちらりと見える。
アイの背中を見下ろしながら、「明日さ」と声をかけると、彼女ははカバンを閉じこちらに向き直った。
「飛行訓練場に行ってみるかい」
アイは一瞬顔をほころばせたかと思うと、直後にはげんなりしたような顔になった。
「それって、崖とかあったりするんじゃ……」
「やれやれ……」
大方そのような返答がくることはわかりきっていたが、ため息が出る。
彼女の高所恐怖症をどうにか克服させられはしないだろうか。
「あのねぇ、いちいち怖がってちゃ、リトの村から一生出られないよ?それに、僕がついてるんだ。転落させはしない」
アイはなおも不安そうにしていたが、嫌そうな割にはうなずいてくれた。
ここまで言って断られたなら、これ以上の無理強いは良くないなと思っていたが、予想外の返答に嬉しくなる。
「そうこなくっちゃ」
アイは僕の嬉しそうな様子に少し複雑そうな笑みを浮かべたが、目が合うとすっと顔を伏せてしまった。
訓練場には深い谷があるし、道中も崖がある。
仕方ない、なるべく怖がらせないように気をつけてあげようか。
「そうと決まれば、さっさと寝なよ。
僕も明日の準備を終えたら寝るからさ」
僕は毛布を指さしながらそう言うと、床にあぐらをかいて弓の手入れをし始めた。
明日、僕の弓さばきを彼女に披露するためだ。
「うん……おやすみなさい」
アイは言われるがまま毛布をかぶり壁際に背中を預けた。
だが、体が小さく震えている。
「あ、そうだった」
彼女は薄着のままだった。
リトの繊毛が織り込まれたあの毛布をかぶっていれば凍死することはないだろうが、このままでは風邪を引いてしまう。
僕は弓の弦を張り替える手を止めると立ち上がり、棚にかけておいたベストをとってアイの膝の上にかけた。
先ほどマックスサーモンをとりに行くついでに防具屋で買ったものだ。
まさか僕が買いに来るとは思っていなかったらしく、店主には驚かれたが、深く問い詰められなくて良かった。
受け取ったベストを手に僕を見上げてくるので、また小恥ずかしさが込み上げてくる。
それを打ち消すようにアイに背を向け、弦の貼り替えを再開する。
「それ、着なよ。
ベストだけど、薄着でいるよりは幾分かマシだろ」
少し間を置いて、背後で布が擦れるような音がした。
さっそくベストを着ているのだろう。
店主が男性用だと言っていたので、アイには少し大きいかもしれないが、温まるのには変わりないはずだ。
「至れり尽くせりだね……迷惑ばかりかけてごめんなさい」
「まったくだよ。
ここまでしてあげてるんだ。もっと感謝してほしいね」
そんなの今更だ。
アイのそそっかしさにはあきれるが、思わずお節介を焼きたくなっている僕も僕だ。
普段ならこんな面倒なこと引き受けないはずなのに、なぜか放っておけない。
「おやすみなさい」
アイの小さな声が聞こえ、振り向くと、壁にもたれて首をかしげた状態でいつの間にか寝息を立てていた。
僕は手入れを終えた弓を壁に立てかけると、静かにアイのそばに寄り「おやすみ」とつぶやいた。
こうして近くでまじまじと見つめると、まあまあ整った顔をしている、と思う。
人間に興味などさらさらないが、アイを見ていると、言葉では言い表すことのできない不思議な感覚に陥る。
このむずがゆい感情は何なんだ。
気づくと、薄く色づいた頬に手を伸ばしていた。
羽毛に覆われたリトの顔と違い、柔らかな感触。
初めて触れた人間の頬の感触を味わうようにするするとなでると、アイが「ん……」と小さく声を漏らした。
ドキリと心臓が鳴る。
ダメだ、変に意識してしまう。
感情の昂ぶりを押し殺すようにかぶりを振ると、アイの両肩を掴み、起さないように、体を床に横たえさせた。
あのままでは寝苦しかっただろう。
寝かせた際にアイの顔にかかってしまった髪を払ったとき、ふと、彼女の耳に目がいく。
「尖っていない……?」
(2021.2.13)